スターリングラード冬景色

史実では史上最大の攻防戦とも言われるヴォルガ川をはさんだドイツ軍とソ連軍によるあきれるほどの消耗戦、スターリングラード攻防戦。

ブラウ作戦の中でも、とりわけその悲惨さが際立つ戦場。
ソ連国境を突破したドイツは翌年6月、バクー方面の油田制圧に向け、南方軍として進軍開始。その副次的な目標として、スターリングラードを抑えることを決定する。

そして始まったのが、世界最大にして最悪の消耗市街地戦、スターリングラード攻防戦である。
戦闘は5か月にもおよび、ドイツ側軍属における戦死および負傷者数75万、捕虜数25万、ソビエト側戦死傷者捕虜総数70万、民間人死者は難民もいたため正確には不明であるが、戦闘終了時に戦闘開始前60万の市民が1500人になっていた、ということだけで十分伝わるだろうか。

双方合わせて150万を超える死傷者数と40万を超える虜囚、そしてスターリングラードの完全破壊という恐ろしいまでの経済損失を生み出した。
プライベート・ライアンに出てくるノルマンディ上陸作戦、水陸用シャーマンのほとんどが喪失し、その上陸兵のほとんどが無防備に敵の射線にさらされたあのブラッディ・オマハを含む上陸作戦の死傷者数を”ドイツ、連合”すべて合わせてもスターリングラード攻防戦の”どちらか一方の死傷者数にすら届かない”、と言えば少しは分かっていただけるだろうか。

スターリングラードはドイツの攻勢にさらされながら、ソビエト側の奮闘、そして苛烈な人的資源の削り合いとなり、最終的に長距離の兵站維持を余儀なくされていたドイツ軍は人的資源の枯渇、という絶望的な状況に陥ることになる。
この攻防戦に投入されたソビエト側兵力はゆうに100万を超え、ドイツ側に至っては総数なんか正確にわかりゃしねぇ、という状況であった。


初夏に始まったスターリングラード攻防戦。東部戦線の中で、もっとも悲劇的かつ悲惨と言える戦場。

そして、人海戦術の恐ろしさと、同時にその人命の軽さを露呈した恐るべき戦場。
それが、スターリングラード攻防戦であったと言える。

ドイツの東部戦線の崩壊の決定的なきっかけでもある。

ドイツの得意とする電撃ドクトリン。それは、地上支援を行うCAS、つまり大規模な航空戦力による地上への急降下爆撃、一斉掃射によって敵軍の出鼻をくじくと同時に、機甲師団を押し出して戦列を踏みつぶし、残存歩兵を歩兵戦力で掃討するものだ。
決してパンツァーやティーガーのみを持ってして行われるものではない。このドクトリンは敵に防衛陣地の再構築を行わせない波状攻撃と、地上と空中の綿密な連携によって成り立っていた。

そして、市街地戦にこのドクトリンは徹底的に不向きなのである。

CASによる地上支援攻撃は廃墟によって阻まれ、機甲師団が市街地に向くわけもなく。
徹底して歩兵師団によるインサイトでの肉弾戦が主体となる。

人海戦術を主体とするドクトリンのもっとも恐ろしいのは、こういったインサイトでの肉弾戦に引きずり込まれた時だ。
人海戦術を取る国家はいくつかあるが、彼らがなぜ、焦土作戦をよしとするのか、はこれで分かっていただけるかと思う。それは、もっとも効率的な、人命という”武器”の機能を発揮させる戦い方でもあるのだ。

スターリングラードを迅速に包囲したドイツ第6軍は8月、航空部隊の猛爆撃を支援に市街へ突入する。
しかし、そこに待っていたのはがれきの山と廃墟を巧みに利用し、ドイツ軍を翻弄するソ連第62軍。
戦いは、苛烈な肉弾戦に移行し始めていた。

11月までかけて、ようやく62軍を分断したものの、第6軍の消耗も並大抵ではなく、市街のほとんどを確保したものの、62軍は未だ根強く抵抗を続けた。

そして、ソ連軍は秘密作戦、天王星作戦を開始する。それは、第6軍の兵站破壊。すなわち、スターリングラードの逆包囲作戦。これは、ものの見事に成功し、第6軍は完全に孤立、市街に取り残される。
パウルス大将はこのとき、ヒトラーに宛てて撤退許可を求めるが、ヒトラーはこれを拒否。徹底抗戦による死守を命じる。

そして、この逆包囲への対応としてスターリングラードに到着したのが天才、エーリッヒ・マンシュタイン元帥。グデーリアンに反目しつつも、ドイツ陸軍の天才の一人である。
マンシュタインは主力部隊の到着を待って、逆包囲解除作戦、冬の嵐を立案。一時的に包囲を解き、第六軍の救出を目的とするものだった。
パウルス大将に冬の嵐による包囲解除と撤退作戦”雷鳴”の実施を要請、内外での作戦発動時の同時呼応攻勢を求める。

冬の嵐は成功し、スターリングラードの包囲はあと壁一枚。第6軍がその壁を背後から突けば、第六軍は孤立から脱出できる、はずだった。
しかし、残りの壁一枚を前に、パウルス大将は動かなかった。

死守。その一言によって、彼らはそこに踏みとどまることを決定していたのである。

冬の嵐作戦、中止。マンシュタインは第六軍の雷鳴作戦不実施に伴い即座に決断。第六軍をスターリングラードに置き去りにすることで、周辺で攻勢を受けていた他の部隊の撤退を優先。カフカースのA軍集団などがこれによりぎりぎりの撤退を成功する。

第六軍はすでに絶望的であった。ウラヌス作戦の包囲は解かれることなく、市街で分断包囲した第62軍はいまだ抵抗を続けていた。

12/24、第六軍軍医の手によりマリア像の絵が描かれ、兵士は最後のクリスマスを祝う。塹壕の聖母像、である。現在この絵は、カイザーヴィルヘルム教会に飾られている。

1月、ソ連は第六軍に向け名誉ある降服を勧告、パウルスはこれも拒否。
これを受けてソ連は鉄環作戦を実施、包囲網を狭めていく。飛行場が確保され、航空機による脱出も不可能となる。
ここへきて、ようやくソヴィエト第62軍は第六軍の包囲から抜け出し、友軍と合流。実に4か月もの包囲戦を戦いぬいたことになる。
ヒトラーは第六軍の降伏を認めず、決死の戦死を要求。パウルスを元帥に昇格(過去に降伏した元帥が存在しないため、プレッシャーとして)。
第六軍はこれを受けて決死の抵抗、しかし月末にはパウルス含む司令部が降服。
翌月には抵抗部隊の多くが個別にソ連に降伏することとなる。

軍団全体を降服としなかったことで、パウルスはかろうじてヒトラーの命を守ったとされる。
これを受け、ベルリンでは第六軍の壊滅を報じ、ベートーベンの「運命」が流された。このシーンは東部戦線の記録フィルムではあまりに有名なシーンだろう。

しかし、その結末はさらに凄惨を極める。

このときの降伏した虜囚9万のうち、生きて帰れたのは6000名足らず。残りは、シベリアの土になった。

ヒトラーはこの第六軍の包囲殲滅に関して、その責が自らにある、と語っている。
事実、彼の”死守”命令こそがすべての根源となったことは間違いなく、パウルスがあまりにも忠実であったことも悲劇であった。
スターリングラードでの一個軍まるごとが包囲殲滅されるというのはあまりにも手痛い、と表現するには生半可なほど苛烈な痛手だと言ってよかった。

そも、42年の夏季攻勢であるブラウ作戦は、バルバロッサと同様ヒトラーの直観で作られた作戦に等しかった。ブラウ作戦のほとんどが失敗に終わり、手痛い敗北を喫した。
バルバロッサがかろうじて勝利、とよべるレベルの成果を多少なりともあげたとはいえ、バルバロッサの目標拠点、レニングラードは落とせず、モスクワも落とせず、戦果など初期の奇襲時の快進撃しか存在しなかったが。

こうして、東部戦線は完全な瓦解を見せた。はじめから失敗するのが分かっていた、とすらいわれるブラウ作戦は、ソ連による逆侵攻を受けることとなり、この後、赤軍に押され続けることになる。
大規模戦車師団同士の決戦、クルスクの戦いやバグラチオン作戦での敗北。そして、春の目覚め作戦からベルリン包囲。

すべては、ソ連を甘く見積もっていた一人の男の失策でもあった。

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