どんなに素晴らしい言葉を取り繕っても
どんなに人々に感銘を与える言葉と思想を持っていたとしても
刃の向け先を間違えた人間を褒めることを沙耶は良しとは思わない。
秋葉事件の加藤智大って偉大な革命家じゃね?
どうも勘違いが多いな。
派遣問題などがこの事件後に大きく取り上げられ、問題視され、方針を変えざるを得なくなったのはあくまで”結果”でしかない。
”原因”というかこの場合発端と言うべきかもしれないが、その一部は確かに加藤にある。
では、やはり加藤は偉大だというべきだろうか?
沙耶はそーは思わない。
なんでかってーと、原因と結果、ってのはそもそも何らかのものによって結びつくことによってはじめてその二つは関連があるとみなされる。
その二つを結びつけるのが、”因果”と呼ばれるものであり、すくなくともその因果として加藤の思想こそがそれである、と語るにはあまりにも稚拙と思う。
因果に当たる部分は加藤にはない。
加藤はあくまでトリガーでしかない。底辺、という言葉を使うのはあまり好きではないのだけど。
思想自体にはある面での真実も含まれてはいる。ただ、その発露の先が”同類に向けられた刃”では誰も理解しない。ただの蛮行でしかない。
これでは赤軍とやったことが変わらない。
では、因果はいったい何だったのか。
おなじよーな思想自体は社会にそれなりに蔓延してたってだけだ。そこが因果の下地。そして、人の死、というトリガーに対して、きちんと社会が向きあった、それが因果。
底辺が底辺であったというなら、底辺同士の殺し合いに社会が向きあう必要など、ない。本当に彼の言葉通り、日本人であるとみていないならね。
ま、奴隷は奴隷だが。奴隷同士のけんかと殺し合いを飼い主が向きあって改善を考えたことが因果であって、奴隷同士のけんかと殺し合いの原因が因果であったというのはあまりにも暴論だろう。
社会が彼の言うとおり、変える気もない、救いようもないほどに傲慢なシステムならばそもそも向きあうことすらする必要などない。
産業革命のイギリスと何も変わらん。現代は少なくともそれを学習し、より良い、言葉を変えればより効率的に搾取できる、とも言えるが、そう言うシステムを組んで来た。
感謝するならそれを結びつけた因果であるところの社会へ向けるべきだろう。加藤はトリガーでしかないのだから。
トリガーだけなら誰でも引ける。それは単に度胸の問題だったり、精神の強さの問題でしかない。
革命家、とはそういうものではない。さっさと話す時には英雄、なんて言い方もするけどね。
彼らは、狙いを定め、トリガーを引き、あるいは誰かに巧みに引かせ、因果を自ら構築誘導し、自らの思想と理想へ至る道を自ら作り出す者のことだ。
ただの凶行に至るだけの愚者と同列に語るな。驕りも甚だしい。ならばサカキバラとて英雄で革命家と言えてしまう。
安倍定をお前らは革命家と語るか。津山三十人殺しを英雄と語れるのか。
因果を作り出すことのできない、だが結果をもたらすものを英雄と、革命家と言うならばあさま山荘はまさしく革命家の所業と言える。
愚鈍な。思考と思想のたどりつく点が誤っている。
いかなる行為も思想の元に行われている。
それがたとえ、ドイツの人肉肉屋であろうとだ。精神を犯され、狂った生き物となり下がろうが、そこに思想は存在する。
それがたとえ万人に理解不能であろうとも、行為に至れば結果を産む。
その結果に良いものが含まれてさえいれば、すべて革命家とでも言い慣わす気か、このゆとりどもは。
社会は蛮行から学習し、それを防ぐためのアプローチをとる。それは少なくとも、社会を”よいもの”にしようとするアプローチだ。
このアプローチという”結果”はどのような事件であろうとほとんどの場合に付随している。
そのすべてを革命家というならば、どんな下衆な殺人鬼であろうと革命家と呼ぶことができると言っているんだこのクズども。
名古屋アベック殺人事件も。
臨月妊婦の斬り裂き事件も。
光市の母子殺害も。
女子校正コンクリ詰めも。
社会はその都度議論を巻き起こし、センセーショナルにそれを捉え、そしてより厳しい目をそう言った凶行を起こさせないためにアプローチを試みた。
それは、その犯人は革命家だったと言いたいのか。社会をよりよくするための礎だったと。そのために必要な犠牲であったのだなどとほざく気か!!!!!! ふざけるな!!!!
革命家とは万人に受け入れられる因果をも自ら導けるもの、でなくてはならない。
そうでないならただの犯罪者にすぎぬ。
照準を定め、トリガーを引き、誰かを殺めるなら。
その行為が”万人に認められ、社会がそれを許容するだけの下地”のある行為でなくてはならない。
9/11テロはイスラムにとっては英雄だ。
だがそれはアメリカにとってなんだ?
加藤を革命家と言うからには、その行為をも許容する人間であると言及できねば意味はない。
ただの思想家。そして、思想だけならそこらの子供ですら持っている。
愚かしきかな。
加藤を底辺のゴミとは呼べない。彼には彼の思想があったのだろうよ。多くのシリアルキラーにも思想があるのと同様にな。それは愚かしい殺人犯にも、憎むべき強姦魔にも思想だけなら存在する。
その思想を勝手に因果と結びつけた短絡的な考えが愚かしい。
加藤は、ただの、一個の、
そして、普通の、そこらにいる、
ただの、人間。俺らと同じ。
普通の人。
ただそれだけ。
底辺でもゴミでもなく。ただの人であった。それだけだ。そう言う意味では沙耶はシリアルキラーをもただの人間であった、と言うがね。
この社会が彼を革命家と認めるなら、沙耶は反革命家として生きねばならんよ。
認められるものか。蟲毒の如く押し込められた壺の中でとも食いをした獣を革命家などと。
認めるならば、その蟲毒の壺を作りだしたモノこそが英雄であり革命家だよ。
この社会がトップの少数に喰われるために飼いならされた牧場だというならば。
その牧場システムを生み出したものこそが、この社会にとっての英雄であり革命家なんだよ。
牧場の中の殺し合いが起きても、その刃はそこまで届いていないなら、それはただの蛮行。
革命家を名乗るなら、このシステムを生み出した英雄を討ち、それが認められたときに初めてその一歩と呼ぶに値する。
定められたルールの中で、ルールが少し変わった程度のことで、革命などとちゃんちゃらおかしい話だ。
平和ボケってなぁてめぇのことを言うんだよ。
ルールの大本が変わってすらいねぇし、そのルールに守られていることをよしとしながら自分に都合の悪いルールが少し変わったくらいで革命だって? 笑わせんなガキ。
てめぇ、9条教と何もカワンネェこと言ってるって自覚ねーのかよ。