時代背景を考慮しないで

脳髄だけで反応するなと。

法、とはその時代において作られるものであって、後世の人間が”後世の価値観で”その善悪を述べることはできない。
それの善悪を問うならば、”その当時の価値観を持って”述べるべし。

日本史史上最悪の法令って何?


だから近世の価値観しかもちえないわれわれが戦後の悪法ばかりをあげつらうのはむしろ正常。
なぜなら、我々は当時の価値観を絶対的な基準としては持ちえないからだ。

そのうえで、当時を類推することはできたとしても、それが真に当時の価値観であるかとは誰も定め得ない。

にもかかわらず、なぜ彼らは国家総動員法だの治安維持法だのと口にできるのかね?

その善悪を断じれるほど、君は当時に生きたのか。そして、君の今の価値観もまだ当時のままなのか。
だとすれば早く死にたまえ。
君は、明らかに危険人物だ。

さて。

治安維持法、か。

この法律の目指したのは、共産主義の侵略を防ぐためだった。それが、たとえどんな手段であったとしても、共産主義の侵入は許されざることであった。

なぜか。

簡単な話だ。日本が、自由経済国家だったからだ。

いいかい。治安維持法を悪法だと切って捨てるなら、ほんの何年か前までのソビエト連邦崩壊前の統制経済や中国の貨幣である元のコントロールもすべて悪法といわねばならない。
すなわち、治安維持法を悪と切って捨てる、というのは一見他の意見を尊重すべきだというひどく人道的な話に見えてくる。
だが、それはとりもなおさず、その当時の国の根幹である政体に対する否定でしかない。つまり、それを悪と言ってのけるということは、当時の日本の政体の形態とその存在性の否定にほかならない。

小林多喜二がどんな死に方をしようが、憲兵が拷問かましていようが、それは法の穴であった、あるいは法として見落としが多かった、という話でしかない。
そういう分析を持ってして、その法が法理念において欠陥が多いから悪法だったのではないか、という論じ方はありえる。

だが、一口に治安維持法は悪であった、という切り方があっていいものか。治安維持法が悪であった理由に思想の制限を持ってくるのは、それこそ当時を理解していない証拠だろう。治安維持法が思想を制御しようとしたから悪だというならば、当時の天皇制という形での王政制御の国体の存在もまた治安維持法の否定者は”そういうかたちでの国の在り方”を否定し、排除しているにほかならない。
それは単に、おれは共産主義者だから資本主義者やファシズムを認めない、死ね。と言ってるのと何も変わらない。
なぜなら、治安維持法のやろうとしたことも同じだったのだから、そのセリフを吐く人間がどうして治安維持法を悪といえるというのか。

こそ泥が同業者を見てあいつはこそ泥だから悪いやつだ。って言ってるようなもんである。バカバカしいにもほどがある。

法にはその目的とするものがあり、その目的が”悪”であったといえる法は昨今見渡してもまずない。
ていうか目的が悪である法なんて普通制定できない。

”殺人奨励法”なんてつくろうとして、作れると思うか? 無理だろ。
粛清のことは見なかったことにしろ。下手に突っ込むと命があぶない。

治安維持法に対するコメントはそう言うコメントがちらほら見受けられる。これに対して、”目的は悪じゃないだろ”ってのが治安維持法は悪法じゃない、って言ってる人だな。
”目的”はあくまでファシズムや自由経済国家において毒以外の何物でもない共産思想を排除する、それが目的。

つまり、それが極めて恣意的に運用された、つまり穴が多かったよね。って法であった、という話に過ぎない。
思想の取り締まりだしね。ある種魔女裁判とあまりかわらんさ。児童ポルノ法にしたって同じだろう。
”誰が””どうやって”それを確かめ得るのか? その客観的な指標がどこにある?

思想だの性癖だのを明確な数値化できる指標を持っているのかね、人間は。

沙耶の思想はナショナリズム75%、スターリニズム5%、ユートピア思想3%みたいな。
出来るならやれよ。見たことないけどな。結局、対思想とか対性癖になると恣意的な運用が危惧されるため、多重チェックによってそれをなるべく起こさないように作る、それが穴を減らすというだけのことだ。

そういった”穴”はどんな法律にだってあるし、穴の多寡をもって悪か善かが決まるべきものなのだろうか?
法において悪法、というのは悪を為さんとしてそのために定められた法のことではないのか?

たとえば、”殺人奨励法”を定義したいけどおおっぴらにやったらまずいよね。
じゃあ”銃刀法”を改正して所持基準を緩め、”正当防衛”を拡大して過剰防衛を許容し、ちょっとしたことで殺人が起こっても無罪になる人が増える社会を作ったとして、いったいどこが悪法なのだろう。

どちらにも、十分な理由づけが可能だ。
つまり、世の中そうやって回ってるわけで、何が一番の悪法だったか、なんて意味のわからない議論なんだ。

入管法における特例法だって、特別永住外国人を定義しているだけ。それ自体は人情的にはまあ仕方無い部分もあるのかなぁ、って風にとらえることもできる。

問題はこれが他の法の緩和や役所の窓口での”配慮”と合わさって権益を作りだしたから問題にされているわけで、じゃあどれが悪だったんだよ、って言ったら全部だろ全部wwwwwwwwwwwwwwww
個々に見て言ったってそんなもんいくらでも理由づけできるし、おおっぴらに反目しにくいようなお題目くらいいくらでもヒネれば出てくる。

そういう、すごく単純な仕組みもわからずになぜ治安維持法が悪法だといえるんだ?
官憲の権力が拡大していた当時の動員体制や戦争経済化、その中での権力集中などをおこしたほかの法案は無視か?
憲兵が暴力振るっても”問題なかった”のは治安維持法のせいではなくて、状況がそれを赦したからだ。

治安維持法が思想信条を禁じたから悪だったというならば、自衛隊の”クーデターの禁止”を謳うことや、武力を持ってして思想の強制を行う行為を禁じることは善だといえるか?
何を、どこまで持ってすれば自由を認めるべきか? 否か?

その物差しはどこにありや?

スケールを提示してみせること、それはとても大切なことではないのかな。

ちなみに沙耶が思う史上最大の悪法は、全部の法律だと思いますけど。


法、ってのが天秤を定めるものであるなら、それは完全でなくてはならず、ひとのうみだすものに完全なんて存在しない以上、どれにも程度の差こそあれ穴がある。

完全なる一つ、でないなら、あとはうぞーむぞーいくら穴の多寡があろうがそれは天秤たりえません。

穴のあいた天秤を一生懸命運用でカバーしてるだけなわけで、そんなもんのどこが素晴らしいなどと言えようか。
運用がまずかった法は何、ってんならわかったんだけどねぇ。

等しくすべて悪法。それが法のもとに真に平等である、ってことではないかな、と思ったりもしてみる中学二年生の黒歴史。

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