中の人が変わったのかな。

それとも単なる問題提起としての振りなんだろうか。
いまいちわからんね。

愛国心について


愛国心。とナショナリズムがごっちゃになってる人が。さらには米欄にはナショナリズムが選民思想にすり替わってる人まで。
これじゃ頭にいいわきゃないよ、スイスイスーダラダッタスラスラスイスイスイ。

まず、愛国心ってなんだろうー。ってとこから始めたらどうだい幼稚園児のみんな。
えらそーな肩書きの文学者ごときに振り回されてないで、さ。
芸術家連中は全員地球市民思想だってことにまず前提を置かなきゃいけないよ。だって、彼らの作品は人種も性別も国家も基本的には超えてしまうものだ。故に、彼らは基本的に垣根がないのが素晴らしいこと、という風に流れていく。
これは彼らがいいとか悪いじゃなくて、そういうもの。

愛国心を自己愛だと言ってる人がいる。これは、実のところ全くその通りだ。

俺が好き!
俺が育ったこの町が好き!
俺が生まれたこの空が好き!
俺が遊んだこの海が好き!
俺が学んだこの学校が好き!
俺が友と語り合ったこの県が好き!
俺が彼女と出会ったこの国が好き!
俺が生きてるこの地球が大好き!

なんで最後一個手前だけが愛国心だって呼ばれて否定されにゃならんのか、考えてみたことはあるかな?
青春時代の群像を描いた小説や映画を見てみれば、町が好き空が好き海が好きがっこーが好き!の塊なわけだよ。それこそ、愛国心なんてくそくらえだ!って言ってる連中が描いた作品が、おれが好き俺が好きって自己愛の塊なんだよ。

言ってしまえば最後の地球市民思想だって俺が好き!の延長でしかないのさ。広い意味で、ナショナリズムに過ぎないんだよ、左翼思想も右翼思想もね。

だってそうじゃん。

他の惑星に生命がいたとき、明らかに地球市民思想は障害になるのがわかってんだよ。
いまの愛国心同様にね。
これを郷土愛と愛国心は別だよね、って分けてる人もいるけど、本質的なとこは一緒。
昔にさかのぼってしまえば、人が行ける範囲が狭まってしまうと郷土愛である「この町が好き!」で戦争をしていたんだよ。
ギリシャの都市国家とかがそれに当たるね。もっとさかのぼれば隣の村と戦争してたわけさ。
川の水をより多く取ったとかとらなかったとかそんなくだらないことでな。

いまだにやってる香川と徳島バロスwwwwwwwwwww

んじゃなんで愛国心が邪魔なのか、っつーとだな。

”本来は”町が好き!の状態から県が好き!の状態への遷移を行う際に、それまで”県”という概念が薄かったばあい、町間の対立はかならずその県の中で起きてしまう。
だから、”町”への帰属意識を”県”にすり替えていかなきゃならない。

同じように、県から国への帰属意識の変更も行われる。これが行われたのがまだ記憶にも新しいが”明治維新”なわけだ。

長州藩も薩摩藩も”江戸幕府”への帰属意識なんて藩士にあるわけないだろう。彼らの帰属先はあくまで藩であって、幕府じゃねーんだな。だって給料くれるの藩だし。独立採算だし。幕府なんもしてくれないし。
そんなんで幕府に帰属できるわけがないよね。

これを大きく変えていくのが明治維新後の”政府”ってわけさ。

”郷土”つまり地方自治にできること、できないことを定め、できないことを”政府”が行使することで、”郷土”の連中にも国家の存在を認識させる。

このようにより上位の大きな存在に帰属先を変える、というのはかなり大きな出来事となる。
いったんきちんと切り替わってしまいさえすれば、その内部で多少郷土間でのごたつきがあろうが、「まーた香川と徳島がなんかやってるよwwwww」で済む。

…のはあくまで大和民族間での話。

さて、正しい左翼の目的はわれら地球市民であり仲間じゃないか。というところなわけなので、当然ステージをあげるには国家への帰属意識は非常に邪魔なわけだ。
だがしかし、ちょっと待ってほしい。


1.国家への帰属意識を何にすり替えるんだね?

すり替える先が、実はまだ存在しない。まああえて言うなら地球連邦なんだろうな。彼らが一生懸命愛国心否定に入っているのは、地球連邦成立のための賛同者の拡大が必要不可欠だからだ。

確かに、1000年先2000年先をいうならば、左翼のいうところのこの地球への帰属は必要不可欠となるファクターだ。それを沙耶は否定しない。むしろ宇宙世紀さっさと来い。どんと来い。
だが、たかが100年200年先の話であれば現実問題として地球連邦の成立が不可能なくらいは現実路線として見えているものでもある。

2000年先に教科書に載る英雄になりたいわけでもないしね。
人間が視野として持てるのはたかが数百年足らずが見通しのきく未来でしかないのだ。


2.外敵の存在

この帰属意識、というのはなぜ発生するのかを考えれば、現時点での地球連邦の呼びかけが無駄な徒労に等しいことは見えてくるんじゃないかな。

基本的に、何かに帰属する、まとまって何か塊になるってのは「まとまらないと負ける」相手がいるからだ。

だって、ひとりでいて何不自由しないなら沙耶はひとりがいい。
そうじゃない? なんで複数で集まるの?
複数で集まった方が楽しい、とかは回答になってない。一人でいて何不自由しない、ってのは快楽、悦楽、享楽、すべての感情が満たされる、ということだ。

複数で集まらないといけない理由があるんだよ。複数で集まれば、それぞれの間でのルールが自然発生する。
これが、社会。

一人じゃ不足しているんだ、何かしらがね。たいていの場合、それは外敵に端を発してる。
たとえば、家族という最少構成。これは単純にもっとも効率の良い遺伝子継承ルールに基づいたもので、家族単位を構成することで、単独行動+発情期の動物に比べ、外敵に対して複数で当たれるという利点を有している。

これが集まってくると群れ。より大きな外敵に対して当たれること、そして一部の喪失でも群れ全体としての機能が喪失しないこと、個々の遺伝子の継承とリスク分散が行われること。

しかし、家族単位や個体単位で外敵に対して十分な戦闘能力と生存能力を持つ場合、個体単位や家族単位以上の大きさにはならないよね?

たとえば猫。猫集会のような集団ルールの形成は行うけど、あくまで縄張りを起点とした調停であり、彼らは個々が個々の主。これは、猫個体の戦闘能力と外敵対処能力が群れを作る動物よりもはるかに高いからだ。

周りを見てみるがいい。群体を基本とする野良犬、個体を基本とする野良猫。

”いったいどちらが多い?”

野良犬は個々の個体の適応能力が高くないと生存能力が比較的低い。山野に入ってしまえば野生の群体を構成できるから強くなるが、人間社会の中で環境適応したうえで繁殖できる野良猫の個体数とは決定的に異なる。
まあ、狂犬病対策に野良犬は重点的に駆られる、ってのもあるんですけどね。同じ環境を与えた場合、生き延びるのはたぶん猫です。このあたりは習性の問題でもあるのですが、その習性を作ったのは何か、っつーとやっぱ遺伝子ルールと環境なんですよ。

基本的により大きな敵と相対する場合、群れたほうが有利です。
野生動物の場合、このルールを決めているのは食物連鎖ピラミッドですね。

捕食者と、獲物の関係。獲物は群れ、捕食者は個体で満たされるならそれで終了。逆に犬(オオカミ)のようにより大きな獲物の確保のために群れたケースもありますが。

いずれにせよ、”群れた大きさ”に見合う”別の存在”がなければ生命は必要以上の大きさに群れません。
シロナガスクジラがイワシみたいに群れてたら海洋最強生物ですけど群れないでしょ。そんなことしたら食い物無くなるし。この場合は分散した方がリスク軽減になっているわけです。
彼らは対外敵処置のために巨大化という手法を選んでおり、個体戦闘力(というべきかどうかはわからんがw)を高めることで群れる方向性をとらなかっただけです。

逆にいえば、地球連邦が必要だ、というのは”平和のために”と言われても遺伝子ルール的にはまったく共感できないわけです。
が、ひとたびエイリアンでも攻めてくれば話は別です。

だって生命の危機ですもの。遺伝子ルール的に群れないとヤバくなりますから、本能的に共同体制をとるべきだという選択が行われます。


3. 結局?

これはつまりですね。

人間の進化の方向性として、人間は群れることをえらんだ生き物です。
クジラのように個体能力を増大させて問題に対処した生物ではないんです。
逆にこのような進化を遂げた人間、ってのがいわゆる厨二病的な超人幻想だとかスーパーマン的な物語です。現実にあんな超人がいて、人類が束になっても勝てないようなスーパーマンがいたらそいつは間違いなく”正義”を行使しません。100%支配者として君臨します。彼が”正義”を行使すること自体が、人間の群れる性質の根底からの要求だといっても過言ではないでしょうね。

で、あれば国家vs国家ってのは想定できる敵がいるのでまとまるんですが、地球連邦の敵はいないわけです。目的が”平和”という本能的にどうでもいいことだから。

”平和”ってのがなんでどうでもいいのかっつーのはまたいろいろありますけど、そも、”平和”ってなによwwwwww
戦争が起きてないこと?wwwww じゃあ今日本は平和じゃん。
地球連邦化したら、地球連邦内のごたごたで帰属先である地球連邦は平和じゃなくなる可能性があるわけですが、なんで安定した平和な状態からわざわざ他国を引き込んで不安定化するリスクを引き込むのか、という部分の説明ができないのです。

ここをごまかすのに人間は考える生き物だからとか知性が、とか言ってるわけですが、ええ、知性の学徒としてはプゲラwwwwwwwww知性だってwwwwwwwwwwwwwwwwwそれどこにあんのよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwみーせーてーwwwwwwwwwwwwwwwwwww

って感じなわけですwwwwww

しょせんいきものなんて入力デバイスと出力デバイスのついたこんぴーたーですよwwwwwwwwwwwwww
脳みそはきまったルールに基づいて入力と出力の処理をやってるだけです。
それを知性だのとありがたがるのは無用な人間の神格化にすぎません。

魂の座。はぁ。見せて。魂見せて。どのクォークがどう動いたら魂なの。ホッジス粒子はそれを解消してくれますか?wwwwwwwwwwwwwwwwww

はい、毎朝となえましょうね。
「人間もケダモノ!」
はい、りぴーとあふたみー。

身も蓋もないけど、せいぜいそんなもんです。思想家ってのは人間の本質を見失って、知性のありようの本質を見失ってるケースが散見されます。
思想家と哲学が違うってことにいい加減気付けよ。

哲学はそろそろ自己の限界に気づき始めてるのに、それを気づけない思想家が大上段に哲学書を掲げて思想を振り回してるからおかしなことになってんだよ。
哲学を一番理解できてないのは貴様らだ。哲学は貴様らの思想闘争の道具じゃねぇ。

思想家って”平和”を求める思想同士で思想の戦争をしているっていつ気が付いてくれるんだろう。
生命には闘争なくして生存はないのですよ…。闘争の否定は自己否定にしかならんのですがねぇ…。

愛だの恋だの好きだの嫌いだのも幻想なんですが、その幻想が心地いいからその幻想に命をかけてるだけです。
愛だの恋だの好きだの嫌いだのに帰属して命かけるのが美談なら、国に帰属して命をかけて他人を殺してもそれは美談です。
片方を否定するなら、もう一方も否定されなければならないのです。愛だの恋だの好きだの嫌いだのに命かけて他人を殺して終身刑になって、なんて火サスの定番お涙ちょうだいストーリーだろwwwwww

ダブスタもいい加減にしなさいwwww

0 thoughts on “中の人が変わったのかな。

  1. んまぁ、この国の教育ってイデオロギー否定するっしょw(特に歴史絡みの教員はいかに赤いのまぶすか?が眼目なんだろうがw)
    なのに、左系な思想が主流なの ○教○とか
    にゃぜか?っつーと、左の人達って負けたんだよねwww
    維新の後の教育制度の変遷時に、学制施行とかあのへん、基本的に米系自由主義的な教育思想が独逸的な立憲君主制の思想体系に根ざした体系に変わったとこ。
    ここで、左系のって完全に排除、ま、そのまま(今で言う)右の極に向かっていくわけですが・・・
    その反省踏まえた&敗戦のどさくさにまぎれて赤系の人達って教育機関へ徹底的に入り込むのが基本戦略。
    故に自虐系歴史教育が横行するんですが・・・
    ウチも歴史絡みの教育では明らかに左系な(教師個人)主張しか聞いた記憶ないわwww
    >もともと福祉を手厚くするのは社会主義国家の方針であって自由主義国家では福祉は薄くなるのが正しい。日本が社会自由主義国家と呼ばれているのはいまの福祉方針の手厚さゆえにですよ。
    これも、そう福祉国家化ってのはいわば『飴』
    資本主義国家の福祉国家化ってのは、単に東西冷戦の残滓ってのが妥当。
    いかに、資本主義国家を赤くしないか?ってのが指向された時に、『飴』として生みだされたのが国による国民への福祉・・・これがどこで線引きすればいいのかよく分からない『大きい政府』への引き金。
    戦前→戦中→戦後=国家独占資本主義→国家独占資本主義の福祉国家化の流れですね。
    このひずみって解消できねーだろうw
    教育現場と国の方向が明らかに乖離してるのに放置し続けて60年超だものwww
    また60年くらいかけて修正しないとどーにもならんよwww
    権利と義務と自由とイデオロギーのごった煮ってのが正直な今のこの国の姿だものw

  2. まあ「鞭」を打たれるのは嫌だけど「飴」だけは無制限にヨコセ、って言ってる人が無駄に声がでかいのが問題なんですよね。
    別に飴と鞭が適切に行使されるなら多少ひずんでいようがなんだろうがいいんですが。

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