…えいぷりるふーる逃した。

というわけでエイプリルフールは家でじっくり各サイト回ってたら終わってました^^;

……何か?w 沙耶です。

しっかし、週末からおもっくそアレなニュースが次々と飛び込んできてますね。
マズ教科書検定の話から。


沖縄戦の集団自決命令の有無について、検定意見がついたため、左系の新聞やメディアや団体が猛反発してます。が、どの社説も説得力がないというか論理に破綻だらけというか。

間の抜けた話ですね。

簡単なたとえ話でGO。
あるところによしのって人が居ました。普段はバカばかりしてますが、たまに非常に鋭い意見を言う人でした。

さて、よしのはバカでしょうか賢い人でしょうか。

こんな二元論に落とし込もうとしているからおかしいんです。で、困った挙句に言い出したのが狭義の意味ではバカではないが広義の意味ではバカである。

とのこと。意味わかるかバカやろうwwwwww分かるやついたら出てきて説明してみろアホ。

沖縄戦での自決命令は、ここにいい回答があるのでコレ読め
微妙にズレてる意見もあるがな。文部科学省は国の機関なんで国の観点から歴史を語るに決まってるだろう。沖縄の観点で国が歴史を語る理由はない。それを問題視しているのはおかしいと思うが。

まず、沖縄戦での自決そのものがあったかなかったかって話なら”あった”。それは事実だし、疑う余地はほとんどない。これは左右ともに意見はひとつだろう。

では、それが”軍の命令だったか”というところに集約される。

左翼の主張としては
・軍(というか国)は当時皇民化を進めており、軍の絶対支配権が存在した。民間人が軍人から自決するなら、と渡された榴弾を”命令”と受け取ってもおかしくはないので、自決命令であった

右翼の主張としては
・軍は縦割り組織であり、命令書をもって命令系統とする。命令系統が崩壊した状況下では軍は命令を出すことができない。そのばあいは末端兵士は個々の判断での行動をとらざるを得ず、それらの行動すべてを軍の責任に帰結させるのはあまりに暴論であり、個々の兵士の責任と帰結すべきである。

さて。軍事行動の説明としてはこの場合右翼の説明が適切です。すなわち、軍隊とは上部から下部への命令系統を持ちます。
が、連絡路の分断などにより部隊単位で寸断されてしまった場合、命令がない状況では個々の部隊は自己判断を行わなければなりません。ケースによっては再編などを行い、独立命令系統を持つ隊に臨時で組み替え、友軍との合流までを凌ぐこともあります。

この場合、分断された隊の命令系統は、分断された隊の中でもっとも高位の階級を持つ軍人が部隊長となり、全権と全責任をもって命令を発行します。

つまり、この段階ですでに全責任と権限の移管が発生したとみなします。
この独立部隊の責任はその部隊長に帰結します。

友軍との再合流がかなえば、部隊長はその部隊を本来の部隊に戻し、その間の軍事行動について上部に報告、事後承認を受ける必要があります。行動が不適切であれば、軍事裁判にかかる話になります。
そのため、独立部隊の行動について、全権委任が起こるとは言え、友軍との合流を目指す場合に、軍規を逸脱した行動は通常行いません。

さてさて。では、左翼の主張ですが、こちらも理としてはありえます。民間人はその部隊が独立権限で動いているのかどうかは分かりません。いや、わからんわけでもないでしょうが。沖縄ほど分断されてりゃ容易に誰でも分かる話ですしね。

が、沖縄戦の自決問題はもうひとつ別の側面をもっています。それは、集団パニックと呼ばれる集団ヒステリー行動に近い物でもあるからです。
ですから、民間人がその時点で冷静な判断が取り得た、とするのも難しいでしょう。
実際、兵士から死ぬなと命令された民間人も居る訳で、分断された部隊や個々の兵士の信条に帰結している部分と言わざるを得ません。

では、歴史とは何を元に作るのでしょうか。
当事者の心でしょうか。それとも記録ですか。

つまり、結局そういうことなんです。ナポレオンの気持ちは私たちは知りません。彼の成したコトだけが、記録として残り、その記録のうち整合性の取れる記録を持ってして歴史とします。
これを、実証主義といいます。確かに、当事者の気持ちってのも大事かもしれませんが、それは薄れ、消えていくものです。どれほど語り継ごうが、ゆがみ、誇大化したり矮小化し、資料的価値を失います。

だから、物証をもって資料と成す。その資料が、嘘によって作られたものであったのですから、一端ゼロに戻す。それ自体は決しておかしなことでもなければ間違っても居ません。
集団自決のような暴走があったこと自体を否定しては居ません。それを否定する人はほとんど居ません。

そこに広義での自決命令はあったが狭義での命令はなかった、などというあいまいな話はありません。

エジプトのピラミッドは広義の意味ではモニュメントであり、墓ではないが、狭義の意味では王の墓である。などという話を聞いたことがありますか。
ガリレオ・ガリレイは狭義の意味では地動説の提唱者だが、広義の意味では晩年宗教裁判で意見を翻したので地動説の提唱者ではない。そんな話をきいたことがありますか。

こんな理屈がまかり通りますか? 誰がこれで納得しますか?
単純な二元論に落とし込む話ではないのです、そもそもが。しかし、それをさまざまな理由により、二元論に落とし込み、「あった」「なかった」だけで語りたい人がいるんです。
それは、とっても危険なこと。とっても愚かしいこと。

ちなみに、例題の二元論ですが広義でも狭義でもバカはバカだと思います(ちょwwwwww

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