やる夫で学ぶ捕鯨問題 前編
やる夫で学ぶ捕鯨問題 後編
是非目を通してみて、自分で考えてみてほしい。
ちなみに沙耶は普通にクジラ肉の味も知ってるし、あの赤身は全く嫌いじゃないし、食用文化として賛成ですね。
単に今あんまり食べてないのはそもそも流通量が少なくて入手性が低い、と言うだけにすぎません。
とはいえ、じゃあ捕鯨量増やして流通が増えれば消費も増えるか、と言われたらNoですね。
とんでもなく旨いわけでもなく、希少性で価格自体は味に見合わず高い、では消費が増えようがありません。
で、じゃあ文化以外の理由を提示して見せろ、というならば、よくある他の海産資源量とのバランスについて、と言う話を持ち出さざるを得ませんが、ぶっちゃけこれ海んなかの食物連鎖ピラミッドが正確に推定できるわけねーじゃんってーのが念頭にあるのであまりアテにはしていません。
それ以外の理由、となったとき、あなたならどんな理由を口にしますか?
沙耶?
一番尊大で一番むかついて、一番態度悪くて、でも一番現実に沿ってる理由がありますよ。
「目の前にあるもん食って何が悪い。絶滅させて何が悪い?」
人類の進化という過程において、エコだの環境だの人間による野生動物の生体数管理だのとトチ狂ったことを言い出したのはつい最近です。
このすべてが、単純に、滅びたら(人間にとって)都合が悪いからに過ぎなかったりします。
だから、別に中韓が犬食おうが東南アジアで食用ゴキブリ喰ってようがだからどうした喰え喰え喰え。
人はそうやって自然を喰って大きくなっただけ。これからも、そうやって喰っていき、喰うものがなくなったら滅びる。
それが、”自然の摂理”だと思います。プレーリードッグが増えすぎて、喰うものがなくなって減るように。
それこそが、自然に置いての食物連鎖ピラミッドバランスというものだと思います。
だから喰いたいだけ喰いたいものを喰えばよろしい。クジラだけ例外になる、ということの方が異質である、という理由を提示します。
喰いたいなら人は人を喰っても沙耶はそれをなんとも思いません。
共食いを禁止しているのはあくまで”社会”という構造によるルールにすぎず、自然の摂理はそれを禁止しません。
社会は自然の部分集合にすぎず、自然のルールと社会のルールが相反するとき、社会からはじき出されても問題ないなら自然のルールに従っていてもそれを問題とは思いません。
その代わり、当然社会の庇護は得られませんが。
この捕鯨ルールってのはあくまで社会のルールでしかないのです。
自然の摂理ではない。にもかかわらず、反捕鯨においてはあたかも社会のルールの策定に於いて自然のルールの代弁者であるかのように振る舞うこと、それを社会の庇護下に置いて主張することを沙耶は認めません。
自然のルールの代弁者であるなら人同士の共食いすらも認める立場を取りなさい。
社会の庇護を求めるなら自然の代弁者であるというその立場を棄てなさい。
そのとき初めて交渉のテーブルに着くことを認められると思っています。
ちなみに全くおんなじ理由で地球温暖化にもばっかじゃねwwwwwの立場なのが沙耶です。
喰いたい人は喰いたいだけ喰えばいいんです。理性のタガなんかそこにはいらん。
イワシとり過ぎてイワシ取れなくなって、そのうちイワシ一匹一万円とかになっても、そのツケ払ってんの喰ってた人じゃん? とってた人でしょ?
喰いもしないしとりもしない人はイワシがいようがいまいがどっちでもいいじゃん?w
反捕鯨とかの人は、イワシを観光資源にしてるから俺たちのメシの種を保護する方向も認めてくれ、ってのが主張であるべきで、それを自然の代弁者であるかのような目線に立っているのは沙耶は認めない。
そこに立つなら野生で生きる覚悟と気概を示すべき。
アフリカのサバンナで石器で身を守りながら生活してくれ。それでもなお野生動物は殺すべきではないって言ってライオンに喰われながら死ね。
その時初めてその主張は認めうるものとなる。
沙耶はそう考えます。だからこれからも喰いたいものを喰うさw
血の滴るステーキも喰うし、魚を釣ったそばから捌いて喰うさw
クジラ? 旨いよね。文句あるか。
命を食べるってのは命に対する最大限の敬意だと思うが? 喰った分の命に見合うだけ、生きてやるよw
それが、自然の中に生まれてきた命としてもっともやらなきゃならんことだろう?w
生まれてきて一番やらなきゃならないことは、金儲けじゃないぜ、反捕鯨のガキども。
それくらいわかった上でその卑怯な論理展開をしているなら、沙耶は徹底的に尊大でおこがましい捕食者としてこれからも生きるさwwwwww
てめーらあざ笑いながらなwwww