【社会】 2ちゃんねるのニュース板をのぞくのが日課の「ネト充」男性…「ネット群集心理に乗せられての書き込み、危険」と識者
だからなんだ、って話。沙耶です。
だいたいネト充なんて初めて聞いたわwwwwwwwwwwww
ν速さんがいつものことなのはどうでもいいけれどw
真面目にいってみよーかーw
二つの環境をもって比較しているわけだけど、じゃあこの二つにどれほどの違いがあってどうメリットがあり、そしてデメリットがあるのか、きちんとした比較になってないじゃないか。
こういう比較のやり方も学んでこなかったのか、新聞記者は。
まず、ネット環境との比較として、現実世界でのディスカッションを比較する。
匿名性を問題、というのであればあたかも現実世界のディスカッションに問題が無いかのように受け取れるが、そうではない。
現実世界でのディスカッションにおいては、相互の素性がはっきりしたうえで行われることが一般的である。つまり、その人物間の当人以外知り得ない、何らかの別のパワーバランスが存在する可能性を否定できない。また、そのパワーバランスに基づいてそのディスカッションが進行する可能性はさらに否定が困難となる。
これはやはり同様の性質をネット環境ももってはいる。いわゆる、自演や”嘘を嘘と~”に代表される表現で言われるが、それでも現実世界のそれに比べればはるかに弱いのだ。
たとえば、もっとも簡単なパワーバランスは上司と部下だ。上司の決定方針に異を唱える、というのは恐ろしくエネルギーの要ることであり、そもそもその行為自体が自身のライフスタイルや人生設計といったそもそも本来は上司が介入し得てはならない領分すらも侵すことがある。
それは法的に禁じられてはいるものの、その危険性はずば抜けている。
戦国時代に大名に異を唱える配下武将を義の人、などともてはやす風潮も、”そもそもそれ自体が現代でも困難な行為”だからであって、義でも糞もない。
己の意見を己の意見として現すことの何が正義か。それは”あたりまえ”でなくてはならないもの、であって、それが”困難”であることを”あたりまえ”と感じ、そう述べる精神性の方がむしろ前時代的ではあるのだ。
それこそ法の下の平等の精神を述べるならば、己の意見を口にする、ことが憚られなければならない世界こそどれほどの不平等であるかなどバカでもわかれ。
もちろん、だからと言って現実世界のディスカッションをムダというつもりはない。その利点もあればデメリットもあるというだけのこと。
その対人関係のパワーバランス、というあまりにも恣意的に用いられやすい部分は、メリットでもありデメリットでもあるのだ。
ネットはそれを取り払っている。取り払うことによるデメリットこそ、画面の向こうに人がいる感覚、を喪失するそれだ。
現実世界では対人関係バランスに配慮せざるを得ず、相手をことさらに追い込み、逃げ場を詰め、逃げようもないほどにまで論理的に追い込む人などそうはいないだろう。
それを”優しさ”だとか”配慮”と言えば聞こえはいいが、要はそれをしなければならない理由は”パワーバランスの恣意的な運用”を恐れる、という側面があることもまたアホでもわかるレベルで明白だ。
この二つの環境はあくまで両極端なのだ。
ネット環境においてはその点の差異はほとんどない。肩書もなにもそこでは何の意味も持たない。自らひけらかすならともかく、だからと言ってこちらの素性がわかるわけでは無いのだから、たとえ掲示板に鳩山がバッジと身分証明書をうpして「俺は鳩山だ、逆らったら友愛するぞ」って言って来ようが怖くも何ともないわな。
たとえ自分が鳩山のパワーバランス下において明確な影響を受けうる鳩山の秘書であったとしても、「鳩山ってバカじゃね?wwww」って書きこむことに何のデメリットもない。
それはある程度以上の自由な表現を保障した一方で、パワーバランスを利用した”自尊心を満たす”という行為に意味を喪失させてしまった。
以上、比較。
現実世界、は現実のしがらみをもってして強いパワーバランスによる束縛をディスカッションに制約として課している。それは決してパワハラだけじゃない。ワルそうな奴やヤクザに「駐車違反だぞ!」って言うのはすげぇ怖いだろ。そういうのもまた”現実ならでは”のパワーバランスだ。
その束縛は、意見を捻じ曲げ、信念を揺るがし、思考と思想をも侵す。だが、同時にそれは他人への思いやりでもあり、優しさでもあり、生き物として自己保全を行う本能に基づいたあたりまえのことでもある。
一方のネット世界はその逆だ。パワーバランスによる支配を受けない、そしてそれによる束縛からの解放と自由。意思、思想、思考それらは束縛を解かれ自由な発想と着想、そしてその表現を許す。だが、それは同時に無軌道でもある。虚構にも形を与える。他社の精神性との干渉感を希釈する。ヤクザにだって「バーカ!!」って言い放てる反面、同時にそれはあまりにも制約を持たない。
この二つが混ざりあおうとするのだからそりゃ衝突もしようってもんである。
つってもネットは現実の上に組み立てられた仮想概念であって、それはあくまで現実の中の一部でもある。
つまり、その現実の一部であるはずの空間に現実で莫大なパワーバランスを有しているはずのものが影響力を喪失している、という現実がまずもってパワー保有側からしてみれば度し難いこと、として映るのは当然の成り行きと言えよう。
対するネット環境という仮想世界は初めて意思や意識、思想に与えられた”自由”であり、それを侵そうとする現実のパワーホルダーに対しての反発が生じるのもまた、あまりにもあまりに自明と言わざるを得ない。
以上、総論。
で、この二つの環境の一方のデメリットだけを並べたてること、その行為に恣意的ななんらかの意識や世論誘導の意図はない、と述べられるか?
それは、イデオロギーにまみれた個人がやる行為としてはなんらの問題もない。
Blogでやれ。そういうことだ。
新聞紙上に書く、ということはジャーナリズムである。それは、先のパワーバランスを最大に利用しようとする行為であって、パワーハラスメントの最たるもの。
だからこそ、記者やメディア関係者には最大限の自制が要求されるのだ。
度を越した、度し難いような恣意的な運用がすぎる。そう感じるものが増えれば、売上は落ちるだろう。
けれど、悲しいかな、既に化物のように資産を肥大化させたメディアは、売上ではつぶれにくい構造にシフトしている。
その実態は山の裾野から山を見上げているようなもんで、山裾の土を掘ったからと言って山はなくならんだろう。
何が言いたいかわからんか?
メディアの存在ってのは、先の現実のディスカッションの、パワーハラスメントを恣意的に運用する、という最悪の部分を最悪の形で資本主義というプロセスのもっともあくどい部分で効果を最大化したもの、それがマスメディアだと言っている。だからこそジャーナリズム、などという理想論にまみれた言葉が氾濫し、中立などとできもしない、それこそ世界非武装化みたいな理想論に酔いしれるバカを大量生産しておきながら恥ずかしげもなく外を歩けるんだよ。
それでもいいから、自制だけはしろ、と言ってるのがとんでもなく譲歩してるとは思わんかねぇ?
出来なくてもいいから、自分たちが一体どれほどの傲慢さを持ち合わせたもののパワーを振り回しているかだけは理解するべきだ。
虚像の力ではあるものの、その振り回してる力はそこらの一般人が太刀打ちできるレベルの力ではない。
その力を、虎の威を借る狐のごとく、己の力と勘違いして振り回しているのがマスメディア、という姿の一つの表れ方だろう、と思う。もちろんそれだけではない、なんて話は百も承知だ。
向こうさんがネットのデメリットを並べてミスリードを図っているのだから、こちらだって当然てめーらの一番悪いとこを並べて見せるのが筋ってもんだろう?
自分がやるのはいいが自分にやられるのはいやだなんて子供みたいなことを言うんじゃないよ。
逆にいえばネットを勘違いしてるんだ、この取り上げられていい気になってる小野田ってバカもね。
パワーホルダーになった、そう思ってしまうんだ。それは現実の世界の住人なんだからどうしようもない。あたりまえだ、人は誰だってパワーホルダーになりたい。偉くなりたい。強くなりたい。認められたい。ほめられたい。金持ちになりたい。そういう欲求に基づいて生きていて、それは本能にも等しい。
我々はマスメディアに自制しろって言う以上、自分の自制もしなければならない。
この偶発的につかんだ、肉体の束縛さえも届かない意識の自由に対し、神だのなんだのと思いこむのは、そりゃたしかに危険だろうよw 自由を得た中で、神もクソもない。全員が等しく横並びしてるだけで、”誰かより優れた”状態にならんだけだ。同時にそれは”誰かより劣った”状態にもならん。
だが、まあ、でもだからどうしたよって感じでもあるんだが、それまで抑圧され続けていた場合、これが理解できない。もちろん、抑圧してたのは現実の束縛ってわけですが?
そもそも、現実でその意識の自由は失われてしまう。パワーホルダーに抑えつけられてしまう。
逆にいやぁ、現実にそれをもちこめるって連中は最初っから現実においてもパワーホルダーだったというだけのことだ。
そんなもん、秋葉原の殺傷事件を挙げるまでもない。
あいつは、ネットがなかったとしても暴力のパワーホルダーだった。それだけだ。
アレをネットの闇だのというならば、証明して見せろ。無辜の人間が、ネットによって暴力性を発現させる、そんな人体実験の結果でも見せてくれ。
むしろ、現実の方が暴力性の発露へのリーディングは簡単なはずだけどね?
五感すべてを刺激して暴力性を目覚めさせるのと、視覚、せいぜい聴覚の二つの刺激で意識だけ自由にさせて発露できるかどうか。
バカでもわかると思うけどな、どっちが”より適した手法か”なんて。
ゲーム脳だのと取り上げるまでもないが。
結局のとこ、ネットの闇、だのネットがどうの!って言うのはね。
現実の束縛がそれだけの闇を作ったという証左に他ならない。
それを糾弾する、ということは現実の拘束力を弱める以外に対処はない。
それを闇だと思う心こそが、現実の束縛だと知っておくべきだと思うけどなぁ。
明けまして( ^-^)/:★*☆オメデト♪
今年も色々と楽しませてもらいます^-^
めりーくりすます!