単純にこれが判例になってしまうのは

最高裁「ネットでの中傷書き込みも報道と同等で名誉棄損となります」

ちょっと怖いかもねぇ。
沙耶です。


程度問題であることは間違いないと思うのですが、じゃあその線引きはどこにある?
極大まで拡大解釈した場合、名誉棄損とは事実であり、なおかつ事実であると確信に足る資料を持っていたとしても成立するのです。

つまりですね。

吉野がたとえばどうしようもないバカで、毎日テストは0点で、俺がその0点のテストの証拠を握っていたとして、吉野さんは毎日零点しか取っていません、と書いたら誹謗中傷にあたる、と言うことになります。

そこの判断は悪意の存在性に他なりません。
では、この場合はどうなるでしょうか。

吉野さんが麻薬の裏取引をしていて、その証拠を僕が持っていて、吉野さんは麻薬の裏取引をしています、って書いたら?

告発に当たるのでしょうか、誹謗中傷にあたるのでしょうか。まして、今回の判決では個人に対して当事者の証言の収集まで含めて要求しています。
つまり、これは、極大まで拡大解釈された場合、個人には報道機関と同等の調査義務が存在する、と言うことになります。

それはちょっと違うだろう、と。それ以外の点においては程度も酷いし、別に判決自体はおかしいとは思いませんが、個人に報道と同様の調査義務があるのか?
ネットをマスメディアとして扱うものとする判決に近いのですが、だとすれば、どこからが個人でどこからが報道であるのか、などと考える間もなく、ネット上の出来事すべてに報道としての特性を認めるということに他なりません。

つまり。

どっかの店に行って不味かった。としても、それは報道に当たるので不味かった、という事実であったとしてもそれを事実であると確定する確たる証拠を有していて、なおかつそれが悪意によってなされたものではなく、社会正義に基づいたものでないのであれば、ネット上に記載してはならない。

記載したいのであれば、それが不味かったという事実を確定させる証拠、そして、なぜ不味かったのかという調査と当事者への取材も含め、可能な限りの努力を費やした後、社会正義に基づいて行われるべき、ということになってしまいます。
というか、そう規定することも可能です。

もちろん、これは拡大解釈もいいとこの話ですが、捉えようによってはそのように判例を用いることもできます。

じゃあそのライン引きはどこにある? というガイドラインを示していないと思うのです。

そこらの個人がどっかの店に行っておいしかった、不味かった、気にいらなかったなどと感想を言うことさえも問題なのか? それとも、おいしかったはいいけど否定的見解には問題が生じるのか?
だとしたら無能とか違法の嵐ですがwwww

中傷、をどう扱うか、ってのは現実世界でもかなりあいまいなライン引きで運用されているのが事実で、結果として”一般的に見て”度を越しているかどうか、というなんともあやふやな制限ラインとなっています。

じゃあその一般的ってなんだよって言ったらもうそれは誰にも答えようもない、ひどく抽象的な概念に堕ちてしまいます。
だってそうでしょう? 僕にとってのあたりまえ、があなたにとってのあたりまえである、なんてどうやって証明出来ますか?
出来るのだとしたら、認知科学や哲学はクオリアなんて概念を持ち出してきません。
認識、とは個体によってその知覚を大きく変化させるのですが、総体としての社会は平均値という形で”一般的”を数値化しようとします。
しかし、その平均値すべてを満たす個体は存在しません。

この論理パラドックスは、現在でも個体が集団化し、社会を構成する場合、避けて通ることができないものになっています。
これが、明確にパラドックスであるが故に、明文化されたルールの規定が求められるのです。

「フツーに考えてダメだろ」は何の根拠にもならないのです。

それを答えとしたいなら、何が普通であり、その普通から何%までの誤差を許容範囲とするのかを示さなければ。
だって、個々人の持っている普通、はみんな違っているのです。総体の平均値を示さなければ、普通とは何か、と答えることができないのです。

えらく抽象的な判決だなぁ、という感想を禁じえないですね。

あ、これも中傷になりますか?

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