浦島はー 助けたガメラに乗せられてー
竜宮星にいったとさー
めーにもとまらぬうっつくしさー!
浦島太郎は地球からはるかかなた離れたアンドロメダで、機械の身体を手に入れたのです。
※ねじ一本とかいうんじゃありません
しかしあるとき浦島は故郷の地球が懐かしくなってしまいます。
浦島「乙姫様、地球に帰りとうございます」
乙姫「では、これを」
渡されたのはご存じ玉手箱。地球に帰った浦島は、自分の住んでいた時代の数百年も後であることを知り、銀河鉄道の恐ろしさを感じるのです。畜生、あの顔のねぇ車掌の野郎!(著作権ヤクザにケンカ売らないでください>俺)
浦島は絶望とともに玉手箱を開けてしまいます。中身からは不思議な煙。中にはなにやら液体が詰まっていました。
浦島「これで身体でも洗えってのかあのバカババア!!!」
浦島は激しく怒り、その水を頭からかぶりました。するとなんということでしょう。
浦島はあっという間に溶けてなくなってしまったのです。
玉手箱の中身はアクア・レジア、すなわち中世ヨーロッパにて銀以外のいかなる金属をも溶かしてしまうと知られていた、”王の水”。で、煙は気化していたその液体。濃塩酸と濃硝酸を1:3で混合した錬金術における偉大なる”水”。
機械の身体の浦島は、あっという間に溶けてしまったのです。っていうか生身でもほとんど溶けるだろそれ。
と、このように日本人は古くから宇宙旅行を楽しんできた民族であることは学会でもよく知られており、アインシュタインの相対性理論のはるか昔に、すでに経験則的に時間の進みが一定ではないこと、その現象が起きる条件を知っていました。
このことは量子物理学会では常識中の常識であり、またこれを元に日本人がムー人の子孫であることは疑いようのない事実であることを歴史学会では認めています。
ここまで書いといてなんですけど、ムー大陸の話だけは嘘。ごめん。
けどね、物理学会の話だけは本当に嘘。
浦島太郎の話だけはガチで嘘。
俺がバカだってことだけは本当。
さて。余談はこのくらいにしましょう(長いよ。
タイムトリップの原理
ウラシマ効果。非常にわかりやすく説明してる人がいますね。
光の速度は常に、どのような観測状態から観測しても一定。かならず秒速30万km進む。
そして、一秒、っていうのはこの光が30万km進むのにかかった時間を一秒と定めている。だから、何があっても光は30万km進まなければならない。意地でも。何があっても。どんな障害がたとえ二人を引き裂いたとしても。
それで燃えるような二人の愛は終わりはしないのだから。
なんの話だっけ。兄と妹の禁断の愛の話でもしてたっけ。
ああ、ええっと。スレでも言ってるけど、15万kmの筒の中を光を通して、Iの字からVの字にすると見かけ上より長い距離を光が進んでるよね、って話があるね。
これが特殊相対性理論のおおもとだ。光の速度と進む距離を一定とし、いかなる観測体系からも同じ距離、同じ速度で動くように見えなければならない。
はい、速度の公式思い出して―。
距離=速度*時間
はい単純ですねー。距離と速度がどんな状態であれ一定でなくてはならない、ということはですね。
どの数字いじれば整合性が取れるかわかる人手を上げて―。
はい、そうですね。時間をいじるしかないんです。
秒速25万kmで走る人が自分の進行方向に向けて光を発射したとします。秒速25万kmの人から見たとき、光の速度はいくつでしょう。また、そのときそれを超遠いところから眺めてる人がいたとして、その人から見ると光の速度はいくつでしょう。
5万km/sって言ったやつは吉野と一緒に勉強し直し。
答えは両方30万km/s。このつじつまを合わせるためには、秒速25万kmで走ってる人の”秒速”を疑ってかからなくてはいけません。さっきの速度の公式思い出して。
アインシュタインの相対性理論なんて、この速度の公式にすぎないんですから!
時速60kmの自動車!って言ってるのと同じなんです。単に数字がでかいだけ。物理なんて怖くない。
いや、ぶっちゃけわかんないけどね。
つまり、秒速25万kmの人の時間がめっちゃ進み方が遅くなってればこのつじつまが合うわけです。
ちなみに光と全く同じ速度を出すと時間が静止しますが、エネルギー保存の法則から光と同じ速度は物質には理論的に出せません。
いいですか。無限遠方でAさん(秒速25万km)が発射した光(秒速30万km)をみた人をBさん(静止状態)とします。
このとき、Bさんは25万kmで駆け抜けるAさんと30万kmで発射される光を見ることになります。
見る、ってのも光だろとかめんどくさいこと言わないでね。うっとーしいからw
このとき、BさんにはAさんが25万km、光が30万kmを一秒間に進むのが見えています。
Bさんが発射から一秒後にみたときは、Aさんと光の先端との間は5万km。二秒後には10万km。
その差が30万kmになるのは実に6秒後のことです。ここまではいいですね。これは静止した状態での観測者による観測であり、ここまでの過程でおそらくどなたも混乱することはないと思います。
では、観測者をAさんにしましょう。光は何があっても一秒間に30万km進まなければならないのです。
そのためには、Bさんにとっての6秒間のあいだ、Aさんは1秒しか経っていない、とすれば、光の速度はAさんにも30万km/sにみえるのです。1秒で30万kmの差がつくから。はい、そこ、混乱してないで速度の公式思い出してー。
Bさんにとっての6秒間はAさんには1秒間なわけですよ。これが、早く動けば動くほど時間が遅くなる原理。光のつじつまを合わせるために、世界はゆがむのですっていうか時間は光が作ってるので、光の都合のいいようになるんですけどね。
どんな障害があろうとも何が起きようとも光は1秒に30万キロ意地でも進みます。たとえそれが時間を捻じ曲げることになろうとも!
そう、この理屈は本来「んなことあるわけねぇだろ?あいつの言ってることが事実だったらこういうことになっちまうんだぜ? ありえないだろ?」っていう反証思考実験の結果でした。
そこである人が「よーし、実験で観測してデータ付きつけてやろうぜwwwwwwありえねーしwwwwwwwバロスwwwwwww」って実験してみたわけですね。
あるひと「え。」
時間が止まった瞬間でした。「うぇっうぇwっうぇwwwwwwwwwwwww予測と違うデータでてきたwwっうぇwwwwwwwwwww」
こうして、特殊相対性理論は実際の証明とともに、桧舞台に上がってくるのです。そして、”時間”すら、たてよこななめとかと同じで軸にすぎない、それはときにはねじ曲がる、ことがはっきりするわけです。
すでにこのとき、特異点や非ユークリッド幾何学は無限遠方においての理論として確立していましたが、これが空間だけではなく、時間にも適用できることが明らかとなったわけです。
そして。アインシュタインは最後の砦に挑み、敗れます。
その敵の名は、”重力”。質量が生み出す最も弱い”引き合う”力。たとえどのような障害が二人を分つとも、愛し合う兄妹を引き裂くことができないのです。
あれ。なんか話変わってね? つまり兄も妹も事象の地平を超えるほどの超質量ってことッスか?
”巻七 賀歌”のようなところに撰ばれる歌の「君が代」の「君」は、いわゆる主君のことを指していると考えていいとは思うんだけど・・・ただし、歌われた場によっては主君=天皇 とは限らないんじゃなかろうかという気はしないでもないけれど(つまり、時の権力者へのゴマすりねw)
もっとも、自分の習った高校までの古文なんてのは、
“ぞなむやか こそこそひとり已然形”とか、
“る・らる・す・さす・しむ・き・けり・つ・ぬ・たり・り・・・”
“~せば~まし”
あとはテストに出るような語彙とか。
しか印象に残っていない・・・鑑賞とか読解ってほとんどやっていないんだから、「君が代の意味が分かりません」って人がたくさんいても不思議じゃないような・・・。
そういう自分も君が代の内容が正しく理解できるようになったのは大学入ってからか、それより後だから(汗)
賀歌の場合は君はご主人とかその家のあるじ、ってケースのほうが多いと思うよ。
当時の風習としての門付け歌であるケースが多いから。特に詠み人しらずの場合はねー。
門付けの風習の名残はいろんなとこに見られるけどなぁ。
天皇に賀歌を送る回数と市井で行われる祝い事じゃ回数が段違いでしょ。母数がまるで違うのに、賀歌の中の唄の君が天皇である方が確率が高い、ってのはおかしいと思うんだけど…?
門付けってのは祝い事があった家などの門前で芸人が芸能を披露し、その家の祝い事を祝い、いくばくかの謝礼をいただく風習。各家庭の前に来る獅子舞や万歳の風習もこの門付けからの流れを汲むもの。本来は慶事のあった家の前で行われた。
この一つに歌詠みもあって、歌を詠んで門付けとして家の主に贈る。当然、芸能を披露する側は恐ろしくへりくだるので、恐ろしくがしゃがしゃと過剰に装飾された大袈裟な歌が出来上がる。
君が代なんてまさにそのまんまだと思うよ。
むしろ貴族連中が賀歌で君を使ったならおおきみを指すケースも少なくないけど、その場合は”誰の”祝賀会で歌われたのかは歌の補足に書かれているので”君”が誰かははっきりしている。
だから、紀貫之の春来れば~の君はおほきみである天皇だけど、詠み人しらずの君が代がおほきみである、なんてのは乱暴だと思うなー。