だらだらだら。例の合戦の奪還やらせろとかのハナシ。
ちょっと思ったこと。
相変わらずだらだら長いから読まなくてもおk。
たとえば、普通に徒党やるとするじゃん。
基本的には党首やった人の希望が一番だと思うんですよ、沙耶は。それは間違いないと思ってるのね。
ただ、それは、野良をやるときに限る、とも思うわけです。
野良であれば、その党首の希望に近い希望を持つ7人を集めるわけです。
ですから、これはほぼ全員の希望するものが同じであり、向かう方向性がブレ無いわけです。
ところが、これが一転、知人連中捕まえてどっかいこーぜーってやるとき、沙耶はこれを(自分が声かけるときだけですけど)逆にします。
沙耶の知ってる何人かもそうしてるし、けっこうそうやってる人は多いですね。
言ってる意味がわからないですかね。
えーっと、Aに行きたい、って思ってるキャラが居るとする。知人にAいかない?って声かけて集めてみる。
職の関係とかで、自分と声かけた知人のAへ行きたいキャラがかぶったりした場合、どっちかが引くべき、って感じな状態だったら、どっちが引く?って話。キャラ変えたりすれば問題ないけど、キャラ変更するとお手伝いになっちゃうね、って場合。
お手伝いしてくれ、って声かけたならともかく、ですが。
沙耶はとりあえず、その場合自分が引きます。声かけたホストである以上、ゲストに楽しんでもらうのがホストの役目だと思います。
自分がたとえばAに行きたい、と思っていても、それは後回しにすればいいじゃないですか。次に自分がAいきたいなーって声かけて、もう俺終わってるしやだよ手伝いなんか。なんて言うような知人は作ってませんですし。
だれしも、自分は~~したい、って希望があるわけです。
野良ではそれが一致する人間が集まるけど、知人で集める場合”必ずしもそうではない”ことを念頭に置いておくべきだ、と沙耶は思っています。
なんかとりとめなくなってきたね。多分この考えは「そうじゃない」って思う人も多いと思うよ。党首やって大変なんだから、たとえ知人でも党首希望が優先されるべきって人もいると思う。実際、そういう人も少なくはないし、間違ってるとも思わない。
それはそれでいいんじゃないかな。ただ、それを押し通すならば、相手に過分の期待を押し付けるのはよくないと思う。手伝いしてくれ、って話になるんだし、それを拒絶されて否やを言うべき立場にはないと思います。
その度が過ぎればそれは簡単にわがままと捉えられてしまう。
どんなことでもそうだとは思うんだけどね、その辺のさじ加減は自覚しとかないといけないとこでもあるんじゃないかと思うのです。
どこまでの我が許容される我で、どこからが相手へのストレスやフラストレーションになってしまうのか、ってのは、特に文字だけの関係であるならなおのこと慎重にならざるを得ないと思います。
この度合いは人によって違うとこだと思うのね。僕は7人拘束する徒党でも、知人を誘うときにお手伝いをお願いした人以外で目的に合致しない人が居るのは嫌だし、出来れば1時間半も拘束するなら何かしらメリットを享受してほしいと思うわけです。
で、人によってはこれが7人どころか100人だの200人だのの人の目的を阻害してでも我を通すことを苦にしない人が居るよ、って話じゃないかと思います。
あるいは、自分の行為の向こう側に100人だの200人だのの”人間”が居る、ってことに思い至らない浅はかさ、というべきだろうか。
7人徒党ならつながりが強いので、その向こうに人間を見るけど、合戦場の100人では関係性が希薄だからその存在を感じ取れません。ってことなのかもしれない。
よく合戦を悪く言う書き込みの中で、モノとしてしか見ていない、みたいな言い方をしたり、軍隊だ、って言う人もいる。
ちゃんと話したことでもあればそうじゃないんだろうな、とはわかるとは思うけど、どうしても合戦だとぶっきらぼうになるしねw
でも、ぶっちゃけそれはそれで構わないと思うんだ。100人からの人間が勝つことを目的としてるなら、それに合致している行動に於いて沙耶はモノ扱いされてもそれを不満とは思わない。
だって、自分の目的にそれは合致しているからね。
モノ扱いされた、って怒るのは自分のやりたい目的がそれに合致していないときじゃないかな、と思うのです。
モノでいいじゃない。修理警護がほしいから鹿児島で追尾放置しといてって言われたら明らかにモノ扱いだけど、本人が友好ほしかったら別にこれ嫌だとは思わないと思うんですよ。多少ひっかかるものがあったにしてもね。
合戦に勝つことじゃなくて、検分がほしい、が目的として優先されているから、なんだろうけど。
そして、7人徒党ならつながりが強いが、戦場の100人では関係性が希薄でそれを感じない、って言うのはこれと全く同じことなんです。
勝つためにPCをコマにしているPCが居る、のと全く同じように、自分の利益のために他PCをコマにしているPC。
そういうことじゃないですか、と思います。一方が勝つため、という大義名分を持っており、もう一方が個人の我でしかないのなら、道理として強いのは勝つため、という考え方だと思います。
勝つため、ならコマにされようが文句は無いです。それだけ多くの人がそう望んでいるだろうし、負けたい、と望んでいるPCよりは多いでしょう。
どっちでもいいやってのをカウントするのはちょっと卑怯なロジックだと思いますよ。積極的に敗北に近づく選択肢を能動的に選ぶ以上、受動的な意見であるどっちでも、はそれこそどちらにもカウントされるべきではないと思います。
積極的に負けたい、と望んでいるPCの自己利益のために、コマとして扱われるのは、流石に納得がいかないんです。
まして、積極的に負ける選択肢を選んで置きながら、「負けたいわけじゃない、勝とうが負けようがどうでもいい」は流石にね。積極的にその選択肢を選ぶなら、その人の主張は「負けたい」で無くてはならないと思います。
そうでなくては道理が通らないじゃないですか。都合がよすぎるじゃないですか。
なんだろうね。難しいね。決して検分を持って帰ってほしくないわけじゃないんだよね。来るな、って言いたいわけでもない。
どう折り合いをつけるべきなんだろうね?
僕一人なら引くけども、そう簡単に引くわけにもいかんわね、100人だの200人だのの人がいて、それらがある程度の数勝ちたい、と思ってるならさ。なおのこと、ね。
逆にいえば、個人の我を通したいならきちんと証明してほしいんですよ。
今は一方が全体総意としての勝利、と一方が個人利益、という全くレイヤーの違うステージをぶつけ合ってしまっている。これじゃそもそも話がかみ合わないんですよ。
この二つを同じステージに載せる必要がある。
なので、総意としての敗北、を掲げてくれればよいのではないかな、と。
この国の多数のPCは検分だけ欲しくて合戦は負けるべきと考えている。勝つための努力を必要とせず、合戦場はあくまで個人利益を求める狩り場として扱い、最終的な結果目標は(付帯的発生として)滅亡である、と思っている。
だから合戦は検分のためだけに起こす。
この二つの意見なら、初めてステージとして同一レイヤーにあることになります。
勝利の対が敗北ですから。
勝利の対に個人利益、とおいたところで話は噛み合いません。ですから、対としては敗北を置くべきだと思うのです。
んで、それを会議で決議してくれないかなぁ。きちんと、負けることを願っているPCがこれだけ居て、勝つことを願っているPCの数なんかよりずっと多いんだ、って示してもらえれば、それでよいかと思います。
それで検分だけしまくって負けるならそれはそれが目的なんですから問題ありません。
同時に、合戦厨側も。
合戦に”勝つ”ことが目的なのを当たり前、と思い込んでるわけです、僕らは。
やる以上勝ちに行くのは”当たり前”でその意思もないなら”邪魔すんな”と。
そうじゃないPCが居て、もしかしたら総意は検分のために負けるべき、という考えが主体かもしれない。
その時、僕らは自分たちの”当たり前”が崩されるわけで。
自分たちのあたりまえ、の我を通すなら、こっちもこっちできっちりそれがあたりまえであることを提示しておくべきなんではないかなぁ、と思ったりしました。