あーもーめんどくさいなお前らw

幽霊が見えるけど誰も信じてくれない

あーたーりーまーえーだーろーw
どこから説明すればいいのかな。

幽霊は、いるかもしれないしいないかもしれない派、沙耶ですこんにちは。


そうですねー。まずは認知の領域からやりましょうか。
まず、幽霊をみた、という人。

これに対し、科学は”いいや見えてないよ”という返し方は”できません”。

なぜなら、認知する、というのは主観空間における行動であって、それを客観事象で否定することはできないからです。むずかしい?

▲ ←これ、なんにみえる?

さんかく。うん、そうだね。ぼくにも三角に見える。でも、もしも、もしもだよ?
君の目が実はちょっとおかしくて。

■ ←をみたときに、君の脳の中の視覚情報を映像化する部分において、三角があるときに反応する部分が反応してたとしたら、君にはこの図形が▲に見えると思わないか?

ものを見る、という行為は、いったん視覚において網膜に映像を当て、それを電気信号に変えて神経を経由して脳に伝達される。
それを再度イメージに復元するのは脳の仕事なんだ。エンコードとデコード、あるいはAD変換といった方がわかりやすい? ま、実際とはちょっと違うけどそういうイメージでとらえてくれてかまわない。

つまり、君の”見た”世界は、君にしか”見えない”世界でもある。

君にとっての青が、他の人の知覚している”青”と同一の青を認識していることを証明することはできない。
これを、クオリアという。あるものに対して、美しいと感じたりするのも、このクオリア。
たとえそれは”同じもの(現実世界)を見て、同じ感想を述べたとして”もその二つは同一ではない。

それぞれがそれぞれの個体の主観世界に属してしまう。なぜなら、あなたのいう”見た”世界の映像、イメージ、感覚、それらはすべて脳によって生み出された幻想だからだ。

じゃあ、写真は? 写真を現実世界から切り取って…。

同じことなんだ。切り取った写真を”見る”のはあなたの主観世界でしかない。同じ景色を見る、のと同じ写真を見ることに違いなんて存在しない。


まず、ここが幽霊の存在論において最大の障壁だと認識しなければならない。と、同時にこれを理解してしまえば、幽霊はいるかもしれないしいないかもしれない、以外の答えが出せないことは理解できてしまうはずだ。


つまり、”見えてしまうヒト”の主観世界には”それは間違いなく存在する”。たとえそれが写真に写らなかろうが、ビデオにも残らなかろうが、”見えてしまった”んだから。それは否定できない。
現実に生きているつもりであっても、君の見ている世界は現実ではなくて、あくまで君の主観世界に過ぎない。

大多数の人の主観世界に対する表現が非常に似通うから、現実世界がこうではないか、と類推しているに過ぎないんだ。


さて、ではsの主観世界の映像化されたイメージにおいて、ある地点に”ひとがいる”と感じた人と、”そこに人はいない”と感じた人の二種類があったとする。
どちらが正しいだろうか? 答えは簡単だ。どちらも正しい。

たとえばそれを写真に撮ったとする。そこに”何も映っていなかった”としよう。
それをもって、見えた人の主観世界は否定しうるか? 否。
見えた、という事実を覆すことはできない。それはどんな手法を取ろうと不可能だ。ロボトミーでもして記憶を消すのなら可能かもしれないがね。

まずは、この主観世界についての理解を持つことが大事だ。
見えた人たちが求めているのは、”主観世界において見えた”ことを信じてほしい、と言っているに過ぎないんだ。

対する人たちが言っているのは、”主観世界において見えたとしても、現実世界にそれがあることが立証できなければそれは事実と認定するには根拠として弱い”というだけの話。


信じるだけなら別に根拠なんていらないんだよ。
居る、居ない論と信じる、信じない論は似ているようで全く違う。


だってそうでしょう? A君はBさんを狂おしいほど好きです。
A君がそう打ち明けた時、あなたはA君にどのくらいBさんを好きなのか客観的証明を求めますか?


んなこと言わないよね?w

さて、ここまでが肯定派の人たちの主張の根幹なんだ。見えたんだから、見えた、その事実は本人にとっては変革させようがない、ただそれだけなんだ。


で、否定派。こちらは見えた、という主観世界の話からもう一歩進んだとこにある。
つまり、脳内の主観世界にそういうイメージを結像したのであれば、可能性はいくつかある。

1.そもそもそこには何らかの知覚可能な何か、があって、一部の人間はそれを知覚し、結像している可能性。

つまり、”ほんとになんかいる”可能性。


2.そこには何もなく、別の要因によって”そこになにかいるように”知覚してしまっている可能性。

つまり、現実世界においては幻覚に分類すべきという可能性。


否定派のひとたちはここの二つで争ってる。肯定派の多くは単にクオリアのレベルから抜け出していないのに、否定派はこの二つを戦わせて、1.の可能性が非常に低いため、否定に回るのだ。

実際、1.の可能性はほとんどない。ここを超えるためには、物理法則がある種の系の中でしか顕現しない、という理論のもと、”何か別のものがいる”というその系を定義しなければならない。

サーモグラフィーで幽霊を捉えようといった試みはここに含まれる。
つまり、現在われわれの知る物理法則の系の外側にあるなんらかの法則があって、そのルールのもとに霊、というものがあるのだとする可能性。
けれど、現時点でそれを明確に裏付けできる物理現象は特定できていない。
つまり、今の我々の持つ観測機材では届かないところにある現象である。という可能性しかいまのところわからない。


2.については単純で、最初に話したクオリアの話に近い。■を▲に見てしまうのなら、その理由はあなたの体の中にしかない。
それは物理法則だのとデカい話にはならない。
あくまで、君の脳の問題だ。それが、病気であるのかなんなのかは断定すべきじゃない。

統失の人なんかの語る主観世界に似ているとは言え、その二つが同一であることを立証する方法はなく、あくまで統計学的可能性論を超えることはできない。

そう、さらに言ってしまえば、実は■を▲に見る方が実は”現実”であって、僕らは実は▲を■としてみてしまっているのかもしれない、という可能性を同時に否定できなくなる。

つまり、断定的にそれを病気だと言及するならば、その言及者もまた病気である可能性を否定できなくなるのだ。
それを病気、といっている根拠は、90%の人が■だと言ってるから、という統計学的結論でしかない。

現実にそれが■なのか▲なのかを確かめる術なんて、僕らは持っていないんだよ。
僕らは現実を見るために主観世界を通して見ることしかできないんだ。

たとえばそれにあらゆる角度から光を当て、帰ってくるまでの時間から対象物の形状を割り出す、といったデータ処理的測定手法で得たとして…。
そのデータが指し示す形が▲なのか■なのかを判断するのは主観世界でしかない。

むろん、こんなのは詭弁だ。ここまでやれば99.999999%間違いなくそれは▲で、■ではないことを証明できる。文系的な論破ならこれで十分だ。
だけど、それが同時に100%でないことも証明されてしまう。それが、科学にとってどれだけ大きな問題か、というのは理系に身を置いた人間ならすぐわかるだろう。

だって、最後に絶対残ってしまう。

”それを観測したあなたを証明できるのは誰なの”という自己言及パラドックスが。
あくまで、矛盾の解消に相互観測という手段を用いざるを得ず、そして問題がその観測そのものへの疑問であるという点に尽きる。

観測そのものを疑い、観測によってそれを立証することは、できないんだ。
我思う、故に我あり、はまさにそれを最も端的に示した言葉といえる。


もちろん、精神病的可能性はある。というか可能性は比較的高い。だが、それを精神病だ、というのはあくまで大多数の人による集合的主観世界の中でだけの話。

主観世界、という系の中でのみ成り立つ物理法則。

ならば異なる主観世界という系を持つ人にとって、その物理法則が絶対であるなんて言われたって、相互に齟齬を起こすだけだろう?

どんな手段を用いても、観測者そのものを疑い、否定するなり肯定するなりは不可能なんだよ。
認知系学問をやって、哲学をやらなかった人間は認知を理解してない、と言ったって構わないレベルだ。

2.である可能性は非常に高いが、2.であることを立証するためには自己認識そのものを否定した観測が必要だ。つまり、証明不可能問題に過ぎない。
1.である可能性はとんでもなく非常に低く、研究しても成果が得られない可能性がものすごーく高いが、物理法則からは逸脱しない。が、あまりに可能性が低すぎるうえ、立証できればたしかに新しい系の発見につながりうるが、現行の物理法則と大幅に矛盾した干渉をもたらす。

じゃあ、1.と仮定してわれわれの世界と干渉しない世界ってのがあるとして、そこの出来事ってことにすればいいじゃない!って話も実はある。

だけどな? 干渉しない世界ってことは”観測できない”世界でもあるんだ。なんで知覚できてんの?
ってことになるわけ。これをこねくり回すために多次元解釈だとか分岐世界を持ち出してくる人もいるが…。そのどれも、相互干渉は”出来ない”世界。

相互干渉が、何らかの条件に基づいて”可能”になってしまったらその二つの世界を区分するものはなくなってしまい、その二つは同じ一つであるというしかなくなってしまう。

二つの世界が二つであるためには、その二つは”異なる”状態にあり続けなければならない。

つまり、1.での突破口もほとんど八方塞がりなんだ。あるとすれば、幽霊にとってものすごーく都合のいい話だけど、幽霊粒子とかなんかがあって、既存の観測機器では測定できない何かで、現実の原子と干渉してないことから虚数空間かなんかにあるもので、それを見える人はなんかすごい変な生体器官かなんかが発達しているか、そうじゃなきゃ人間の脳は虚数空間にも同時に存在するとか、そういうとてもふざけてるとしか思えないルールの物理法則系が存在することになる。

仮にそんなもんがあったとして、こちらの物理法則空間に干渉しない、ということは相互干渉できない、つまり”観測不能”である、ってことにかわりはない。
多次元だの分岐世界だのを持ち出すのと変わらないんだ、それは。

そして、それを”みた”ひとがいる以上、1.の立場に立つならそれはこちらの物理法則に干渉できる”存在”でなければならない。
観測できない存在、ということはもうわれわれの未知のナニカっていうしかないんだよそれw

われわれが知らない何かだから存在しない、なんてのはものすごい暴論だし、だからと言って存在の可能性があまりにも低すぎるので、だーれもまじめに取り組まない。


どっちもやるだけ無駄、の可能性があまりにも高すぎるだけ。


さあ、あらためて聞こう。

幽霊はいると思うかい? いないかな?

いるかもしれないし、いないかもしれない。沙耶は、それ以外の答え方を知らないし、それ以上の答えが現時点の解として存在しえないと思うのだけど。

いる、いない、じゃなくて見たんだ、信じてくれ。ってのはこの話とまるっきり問題のある場所が違うんですよ。

ああ、ちなみに肯定派の人が”幽霊はいるんだよ”って言い放ってくるのは単純に相互理解欲求でしかないよ。僕をわかってほしい、私をわかって。そんだけのこと。
だから、そう言われたら信じてあげればいい。それが嘘か本当かなんてことに意味なんてない。
主観世界でいる、としたならそれはいるのだから。見えてないのに見えてる見えてるっていう霊感少女がいたとしても、彼女の中では見えてることになってるんだ。

その二つを区分する方法も、識別する方法もない。なら、証明のしようがないのだから信じてあげるなり、この人キモいって思って距離を置くなりすればいいよ。

A君がどのくらいBさんを好きなのか、数字と証明と測定データがなきゃ信じられない人以外は、それでいいんじゃないかな、と思うよ。

だってそうでしょう?

「俺、人を殺したことがあるんだぜ」って言ってる人を信じるか、それとも距離を置くか、って考えるのに”その人が実際に人を殺したことがあるかどうか”なんて調べます?
その人がどこで、どうやって殺したかは秘密、まだ死体も見つかってないし誰を殺したかも教えない、警察もまだ気づいていない。

けど俺は人を殺してる。

さあ、あなたは信じますか、それとも疑いますか? その判断をするのに、死体の在り処やどうやって殺したかという証明がなければ判断できませんか?

幽霊、なんてその程度の話でしかないんですよ。
>>1が見た、っていうなら沙耶は信じますよ。だからといって、それで沙耶の主観世界に何か起こるわけではないですもの。起こるなら起こるでもかまいませんけどw

結局、それは人を殺してるんだぜ、っていう人を信じて、その挙句にその人に殺されるかもしれないってだけの話です。その二つに原理的な差異はないんですよ。

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