お盆でした。実家にちょっくら顔出して、妹夫婦が遊びにきたので実質まともな休みは最後の三日だけでしたが。
沙耶です。
8/15に冗談にもならねぇエントリ書きやがったペットの飼い主です。ぬばぁってなんだこの野郎。
せめてくぱ(以下略
うちは嫁さんのほうは浄土真宗本願寺派なのにオフクロが施餓鬼会に布施をしろとか言ってきた。どうもなんも理解してないっぽかったので、施餓鬼の意味をわざと間違えて適当に嘘並べてうちはやらん、とか言ってみた。
…訂正されなかった。自分でも何やってるかわかんないものを勧めてんじゃないwwwwwwwwwww
あんま親を試すもんでもないとは思いますけれど。
施餓鬼は浄土真宗はやりません。施餓鬼、とはまさに餓鬼に施す、であり、一部宗派ではこの名は魂のあり様において目上目下を作る(施す、ということがまさに目上から目下への下賜である、との考え)から、この名を使わない宗派もあります。
施餓鬼は餓鬼道に堕ちた魂に食べ物を施すことで、自らの徳を上げ、業を流す儀式で供養の一種ではありますが。
そもそもうちはおやじが末子なのでまだ仏壇もなければ帰ってくる祖霊もおりません。先祖の業もくそもお前らが最初なので仏壇立てれば施餓鬼は施すこともあるかも知れませんが、それはどこの檀家になるかを決めてからです。
ということもわかってないのだよなぁ。施餓鬼ってのは施餓鬼棚などに食物を供える供養であってカネ払う供養ではないのですよ。カネでは腹は膨れませんし、餓鬼道に堕ちた魂にカネですまそうなんてそれこそ罰あたりというものです。
本質を間違えてしまった儀式ほど意味のないものはないのです。宗教とは高度に形式化した論理であって、その形式を踏み誤ればどれほど高額のお布施をしようが、論理そのものが崩れてしまうため、論破されてしまうものですし、意味を喪失したものとなります。
つか施餓鬼を盂蘭盆(うらぼん)にやるのもいろいろ話が混同しちゃってるんですけどね。今の日本では施餓鬼を施餓鬼、と言うよりはお盆供養そのものが施餓鬼の形態を模したものであって、お盆供養すべき祖霊がまだいない我が家で供養を建てたらどこの誰ともわからないのが依ってくるでしょうが。
何のために中元を母方父方の仏壇のあるところ、へ送ってると思ってるのでしょうか。
中元が施餓鬼のお盆供養そのものなのですが。なぜお中元の品を仏壇に供えるのか、わかってないんですね多分…。食べ物を中心に送ることが中元の基本なのも、施餓鬼を兼ねるからなのですけど。
毎年中元歳暮を祖霊に捧げているのですが、供養が足りないというならわけのわからんとこに金銭を布施るのではなく祖霊の元に赴いて墓参りでも仏壇に線香でもあげるべきなのです。
信仰宗教ってのはんっとに…論理体系がグダグダですね、まったく。形態を模して金銭収集システムにしてるだけではないですか。
親や祖霊の供養に金銭でなければなりませんか?って手近な真言宗でも浄土宗でもまっとうなお寺の坊主に尋ねてみなさいって話ですね。祖霊が”どこにあって””どこにいて””何をして””どこに還るか”を理解していれば、祖霊の供養をどこでどうやるべきかは自ずから明白なのですけれど。
民俗学に興味があるのでお前らの故郷の伝説・まじない・風習を教えて
またお前かw 民俗学はいい、民俗学は面白い。柳田先生ばんじゃーい。
利根川のうなぎの話はあまり知られてないのかなー。隠し念仏は先日ここでもトピックを紹介した気がしますね。沙耶的には隠し念仏の名よりも御内法と言われた方が通じますが。
熊野は紀伊から奈良・平安の守りの一つですし、よきものもあしきものもあります。ていうか神様なんてみんな祟り神ですしねぇ!w
さて、仏教の話が出たことですし隠し念仏についてさらっと。
隠し念仏。名前のとおり、表に出せない秘儀です。密教などももともとは表の仏教に対して、隠れた秘儀であることからついた名ですが。
こちらは、もとをたどれば浄土真宗本願寺派に端を発します。浄土真宗は浄土宗の複雑かつ難解な儀式を嫌い、儀式形態を簡略化し、信徒もまた知るべきことも少なく、戦国時代に一挙に勢力を広めた宗派です。
別名、一向宗。
もちろん、武家にも広く広まった教えですが、特に農民などに人気が高かった宗派です。教義は簡略化され、理解しやすい反面、深く突っ込んだ知識には疎く、無知であると揶揄されることもあったようですが。
その浄土真宗本願寺派の中でも、特に異端とされ、邪宗であるとされたのがこの隠し念仏です。それでも、浄土真宗本願寺派から生まれたものであることは本願寺も否定しません。
もともと何かを願うことと、何かを呪うこと、その二つは表裏一体であり分かつことのできるものではありません。神道然り。丑の刻参りを上げるまでもないでしょう。仏教もまた然り。光明真言なんぞその典型でしょうし、密教や真言宗では多くの真言を用います。なかにはずいぶんと攻撃性の強いメッセージの真言も少なくはありません。
ですから、仏教の教義にも密教のような攻撃性の強い宗派は存在しますし、それ自体は忌みではありません。邪宗、とは言いますが、それ自体が”誤っている”と言うわけではないのです。
性質として後ろ暗い部分が多い、というだけで、それもまた教義ではあるのです。
隠し念仏は浄土真宗本願寺派から生まれましたが、その教義は真言密教の流れを汲みます。密教はその性質上、仏教と言えるのかどうかは今でも議論が分かれます。これは、キリスト教に対しての黒魔術などに性質としては近いためで、黒魔術とてキリスト教の十字架への畏怖や聖水などを神秘要素として扱いますが、では黒魔術をキリスト教の一派であるといえるかと言ったらそうではありません。
黒魔術はその大本をたどればユダヤ教の神秘主義の一派、カバラにたどり着きますし、その教義にあるセフィロトの樹などは有名ですが、では黒魔術をキリスト教やユダヤ教の教えである、と定義するにはあまりにも暴論です。
密教とは、仏教におけるその立ち位置に近いのですが、黒魔術ほど無法化されたわけではなく、体系づけられある種の宗教として成立するヴァジュラの流れに組み込まれているため、決してキリスト教に対する魔術、というほど異端になってしまっているわけでもありません。
それゆえに、密教と仏教はつかず離れず、といった立ち位置なのですが。そも、真言密教を開いたのはかの空海ですし、簡単に否定できる御方でもありません。
隠し念仏の祖は親鸞の子、長男の善鸞が広めた、とされています。真言密教の流れを汲み、その儀法は秘。善鸞はこの隠し念仏を信じたことにより親鸞から絶縁されてしまいます。
この隠し念仏は主に東日本に広まったものですが、名古屋、岐阜などにもこの宗派があったことは知れています。
信者はこの隠し念仏のことを御内法、御内証などと呼び合い、信徒を在家信者、内信心などと称します。
これは、ある程度の地域の中で秘匿儀法として口伝、あるいは書物にて継承される秘儀であり、外地からの流入に対しては近年までの迫害などの(浄土真宗本願寺派は見つけ次第正当な教えに戻すように言っている)ため、かなり警戒されているといってよいのではないでしょうか。
もとが真言密教ですから、攻撃性の強い、また結束力、秘匿性の高い宗派です。真言密教とて現時点でもそのすべてを明らかにしているわけではないため、隠し念仏はさらにその中でも正体のつかみにくいものです。
オトリアゲ、オトモサゲなどの儀式など、一部は次第に明らかになりつつはあるのものの、この日本の中にはまだまだ秘匿秘儀とされた宗派は多数実在しているのです。
それらは、民俗伝承などに形を変え、地域に根ざして伝承に埋もれるものもありますが、そのいずれも、近年発足の新興宗教如きの太刀打ちできるような浅い教えではありません。
連綿と長く信仰をつなげる、という行為はそれ自体が時間と信仰の掛け算としてその地域における真実として精錬され、それは神秘としてそこに在ります。
日本各地における口伝や昔語り、禁忌、山に棲む異質、怪異。それらは、そう言ったものがその地において真実として昇華させた事象であり、決して蔑にしてよいものではないのです。
さてさて、物語は時に真実。あなたの知る地域の伝承、それはもしかしたら信仰が高めあげた真実となりえた怪異なのかも知れませんよ?