神道、というもの

「勝手に祖先を英霊にするな」 靖国神社への合祀取り消しなどを求める日韓台団体らがイベント 東京・上野公園

毎度毎度お疲れさまでした。全くもってまあ良く飽きないもんだな。


さて。と。

分祀とか、英霊にすんなとか、まあ勝手なこと言ってますけど…。神道的に、霊、とは何か、を根本的によく分かってないのだな、たぶん。
そして、そこを捻じ曲げようとする、ということがどういうことかも理解できてない、と言っていいだろう。

もっとよく分かりやすく言おうか。

神道において神である御霊の落とし子たる人の御霊はこれまた神。すなわち神が肉体の器から抜け出したならば神域にて畏れをもって封じるべし。肉体とは御霊を封じる器であって、そこから抜け出した御霊は制御がきかなくなるんだから封じるしかないよね。

これは神道においての根本的な概念であると言っていい。

もっと言おうか。

彼らの要求はカトリックに対して、キリストは人の子でしかなかったのだから神の子であったと記述するのをやめろ、と要求しているのとおなじなんだ。
その宗教の根源においての基本概念に対し、その基本概念を破壊せよ、と言って来ているに他ならない。分祀できない、ってのもそこに起因しているからだ。

それに対して、概念がよく分かってない子が名簿から消すだけだろ、なんて言ってるのはちゃんちゃらおかしい話で、それならそれでジーザスクライストスーパースターが人の子でした、って聖書書き変えるだけだろ。信仰も実態もそれでジーザスが教組であることは変わらないのだから何も問題はないはずだよな?

YHWHが神であることに変わりはないし、キリストがYHWHの子である、という部分の記述が削除されるだけでYHWHがいなくなるわけじゃないよな。
単に文書の表面上の問題でしかなくて、現世に生きている人がキリストなんてただの人じゃん。って思ってんだから消すべきだろ常識的に考えて。

これを「はいそうですかわかりました」っていうカトリック司祭がいたら、宗教裁判どころの話じゃないって理解できるか? できない? 頭おかしいの?

神道において魂の扱いを御霊となっておきながら個として認識し、分離する、というのはそう言うことだ。

神を分離できるのは”神”を於いてほかに存在しえない。

古事記も日本書記も読んだことはないのかね。神産みで神を産んだのは神だけだ。現人神として降臨した肉に縛られた神はもはや概念としての御霊の分離は行えない。
肉体という器の中に封じ、奉じた御霊であればこそ、初めて神道は肉体という仲介を通じて神を制御する。

それを形式だとバカにすることなかれ。宗教とはそういう一定の手順や法則を形式として究極にまで高めた形式の形そのものが根幹だからだ。
それを形式だとバカにするならイスラムのメッカへの礼賛を馬鹿にするのに等しい。神殿、として神社仏閣教会のありようそのものの否定に等しい。

ダライラマが常に転生を繰り返し、ってのだって次代のダライラマを今代のダライラマが予言し、引き継ぐという手順を重んじる。”ダライラマが予言した”からその子は次代のダライラマなのであって、他の誰が指定しようがそこに意味が存在しない。
沙耶が隣の家のガキをこいつが本物のダライラマの転生だ!と言い、”それが事実であったとしても”ダライラマとして誰も認識しない。

それが宗教というものの形式美であって、概念の根幹である。

もっとも、現代にはそういう宗教の様式美そのものを全く理解しないアホ(主に新興宗教の馬鹿どもだが)が増えた。
連中は様式美を昇華する、という宗教の形式的な部分を蔑にし、信じることによって得られる実利と現実における利益を提示することによって信仰を得た。

もちろん、キリスト教も仏教も神道も、その先にあるのは救い、という実利ではあるものの、そこへ至る道は決して安易ではない。
それは、極めて高められた様式美によって高く険しい障害を提示し、その障害を乗り越えることこそ、人を人として人間的に成長させるよう設計されたシステムなのだ。

その様式美を蔑にし、障害を取り除き、実利のみを提示した宗教で人が人として成長できるか?


否。


単に楽をしただけだ。ズルをし、近道をした”つもり”。山をひとつ越えて隣村まで来た人と、誰かが掘ってくれたトンネルを通った人。

トンネルを通った人は、トンネルを掘る苦労もわからなければ、山を超えるときに身につく筋肉も得られない。
ただ、楽なだけ。そして、結果として同じ隣村に着いたから、自分の方が優れていると勘違いをする。


違う。そうではない。


トンネルのほられてない、まだ誰も超えてない山が目の前に来たとき、そいつはその山を越えられない。

トンネルを掘れる人、山を超える力のある人はそれを超えていける。

それこそが、宗教の役割であって、意味なのだ。それは単なる信仰のもとで成り立つのではなく、形式ばった、様式と、そして名ばかりであるかのように見える概念や独自法則に基づいて組み上げられた、仏教なんかだと修行だの禅だのと言うが、そういうもんによって成り立つ。

ただ手ぇ合わせて念仏唱えてろよなんてのですら、その障害は計算された様式の中にある。
念仏唱えるだけなら楽だと? 百万遍念仏でもやってみろってんだ。


この程度のことは本来だれもが神への畏れとして宗教や信仰、民族や地域関係なく、本質的に理解されているべきこと。
理解されていることが前提で成り立つもの。

それが、今はないってことなのかねぇ。情けないやら恥ずかしいやら、だが。
畏れることを知らなくなった人間に、いったいどんな障害が立ちはだかるのかね。それを超えるだけの脚力をつけていますか? トンネルをくぐることだけに腐心してトンネルばかりを探していませんか。


現世利益ってのは”救われることじゃない”。

救われるのは自分。救うのも自分。自分を救える人間になること。小乗の教え。多数を救えるほどの人間に育つこと、それが大乗の教え。
神道の神は畏れをもっていずれ神へ返す御霊を育てること、それが人としての役目。

誰かが、”救ってくれた”、信じていたから、”救われた”。


因果が逆である。それを理解しない人間ほどこの言葉を吐く。


救うのは己。救われたというなら、それは己をそこまで昇華した自分によって救われたのだ。

だから、沙耶は己を神だと言っている。神であろうとする。己を救える己であろうと。
紛いものの神ごときに沙耶を救われてたまるものか。貴様らに救えるのはせいぜい他人をだまくらかして巻き上げたカネの魔力だけを掬えるのだろうよ。

己は己の神であれ。それが、沙耶の信念。だから、いかなる宗教も沙耶を曲げられない。
同時にいかなる宗教をも存在を認めよう。それがたとえ愚鈍で卑怯で悪辣なものであろうと、それもまたそれを生み出した神がいる、というだけのこと。

そんな愚劣な神ごときに自身の神が侵されるなど思いもしないもの。

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