韓国の歴史 そのいち

どーもおはようございます沙耶です。

韓国の歴史。興味がありますねとか言われたら書くしかないでしょ。
というわけで、今日はみなさん韓国人になっていただこうと思います。


さて、御存知とは思いますが韓国では歴史教科書は国定教科書一種しか存在しません。
つまり、一般の出版社が教育機関のための教科書を作ることはありません。
政府が政府の手で歴史教科書を作り、それを韓国の正史として教えています。

ですので、日本の出版社ごとで発行される教科書、そして教科書検定の感覚で話しても意味がありません。

さて。では、歴史の授業をはじめましょう。冒頭には民族決起的ナショナリズムをあおる文句がいっぱい並んでいますが、まじめに読んでたら頭が痛くなります。
基本的には”われわれは単一民族であり、5000年の悠久の歴史を持つ偉大な国家であり、他国への侵略などをしたことのない平和を愛する素晴らしい民族だ。その民族であることの誇りを胸に抱け”といったような、いわゆる啓蒙文句です。相手にしてたら疲れます。

北京原人から黄河文明、そして青銅器を経て鉄器文明に流れていく中国の文明のところはスッ飛ばします。大体知ってるでしょうし、知らないなら調べればいい。
BC2333年、神の子供桓雄(かんゆう、ファヌン)と女性に化けた熊の間に生まれたのが檀君王倹です。中国の北東部に建国したとも言われますが、古朝鮮と呼ばれる国を建国し、次第に版図を広げ、中国北東部から朝鮮までを傘下に収める大きな国を作っていました。

檀君王倹は広く人民の平和を願うというなんとも素晴らしい近代主義的着想と理想の元に理想的な国家を運営し、やがては青銅器をひろめ、鉄器を広めました。



建国神話の類はどこの国にもありますが、あまり歴史の教科書に書かれることはありません。が、まあそれはいいでしょう。問題は、これが神話であることをどこにも明記していないことです。ただ、正史であるとも明記していません。

まあ誰がどう見たって神話なのですが、その中に突然鉄器だの青銅器だのの伝播の話が混ざるのです。
鉄器や青銅器の伝播については年代的にそれほど間違っていませんし、正史ですが、それと檀君の話をごっちゃ混ぜにすることで、どこが正史でどこが神話なのかよくわからなくしていると言っていいでしょう。

日本史でいえば卑弥呼の邪馬台国の記述の中の登場人物としていざなぎやイザナミが登場するみたいなもんです。

これなら
「日本は万世一系の天皇を戴き、単一民族からなる世界でも稀有なる純民族国家であり、誇り高きサムライと神に愛されし神の国の民族である。我と我が国の歴史を学びたるもの、われらの歴史を誇りとし、その誇りを傷つけたるものにサムライの魂を見せつけるべく、われらは我らの歴史を知る義務を有する。」
くらい歴史教科書の冒頭に書いておいてもなんの問題もない気はしますが、こんなの書いたら軍靴がっ軍靴がっって怒られそうです。

ちなみに檀君のお墓も見つかりましたが、なんとコンクリート製でした。素晴らしい技術力です。

次行きましょう。次。まじめに聞いてたら頭おかしくなるよ?

さて、檀君の古朝鮮はBC108年に滅亡します。この時代にコンクリートを作れる技術集団がなんで漢ごときに負けるのかはよく分かりませんが、たぶん平和を愛する民族だったからです。まあセメント自体はモルタルとして紀元前からありますしね。それがいつの間にかコンクリートを作ってても不思議はないです、たぶん。そう言うことにしておいてください。

BC202年、中国に漢が建国され、古朝鮮はBC108年にこれに滅ぼされます。理由はなんでも古朝鮮が軍事的にでかくなってきたからとかそんな理由だった気がしますが、まあどうでもいいです。日帝以外が滅ぼしたとこはわりと軽くさらっと流します。
その後、なんやかんやで漢の支配を受け続け、三国時代に突入します。高句麗、新羅、百済ですね。日本と関係が深いのは百済、ついで新羅です。



ここらからきちんとやらないとよく分からなくなるかもしれません。下手に正史、というか世界史的理解があると大変困ったことになるので、今は忘れてください。

百済はさまざななものを日本に伝来させました。科学技術から天文、学問、文化、文明、とにかくあらゆるものを日本に伝達しました。これは百済と日本が深い交流を持っていたためです。また、新羅も同様に日本に多くの事柄を伝達しました。これによって日本は大きく発展しました。この時期は日本は飛鳥文化ですが、その多くはわれわれの教えたことによって成し遂げられたものです。
また、高句麗は中国北東部の多くをその傘下に収める巨大な国に発展し、唐と対等に渡り歩くだけの大国家でした。誇らしいですね。もちろん、この高句麗も日本にいろいろなものをおしえてあげました。
やがて、AC676年に新羅が唐の支援を得て統一を果たします。



儒教思想がベースになっているので、目上の者は目下に常に”教えてあげる”のです。そして、教えてもらった目下は目上の者を敬わねばなりません。弟が兄よりも秀でるなどあってはならないこと、が基本思想としてあることを忘れないでください。

さて。では世界史的にみるとどうなるでしょう。

高句麗は実は朝鮮民族ではなくて中国北東部にある扶余民族の国家だったりします。いきなり民族理論大破綻ですがまあ大陸なんて本来そう言うものです。
高句麗自体は確かに広域を支配した国家でしたし。
ちなみに百済も正確にはわかっていませんが文献的には扶余系、もしくは中華系の民族で、本来の朝鮮民族とは異なっているとみるのが現状ではほとんどっていうかそれ以外の可能性の証拠がないんですね。
というわけで残るは新羅ですが、これも百済から逃げてきた人が作った国っぽいです。ただ、正確なところは全く分かっていません。建国してすぐに中華に朝献をし、唐との関係を強くしていきます。

要は高句麗も百済も中国の戦乱のなかで逃れた人々によって建てられたのでは?ってのが妥当な見方だと思います。隋の建国は581年、それまでは漢の滅亡後、演技で有名な三国時代、そして晋の建国を経て南北朝時代への突入、それを久方ぶりにまとめたのが隋であって、そこまでの戦乱と混乱は容易に想像のつく話です。三国ともにその戦乱期真っただ中の建国であるわけで、無関係と考える方がおかしい。

もちろん、支配層がそうであったというだけで、国内に朝鮮民族がいなかったという話ではありませんが、この三国をホルホルするのはなんか違うよね、とおもわないでもない沙耶さんです。
また伝来の類も中国の文化が朝鮮を経由したことはありますが、すでにこの時期には遣隋使遣唐使が動いており、命がけとはいえ直接交流もありました。
飛鳥文化にしても朝鮮独自の様式が多いかというとどちらかというと大陸様式なんですよねぇ。

ま、先に進みます。新羅が統一を果たしたあとですね。

えーっと、新羅は統一新羅として朝鮮半島を支配しますが、のちに高句麗、百済の再興を目指す人々によって後高句麗、後百済が起きて再び三国に突入します。
最終的には後高句麗がこれらを統一、高麗となります。これが、Koreaの名前の大本です。918年建国。
このころは都合いいことに唐が倒れ、五大十国時代。その後も宋は北宋南宋に分裂し、西夏など蛮勇勢力も台頭、中華は混迷の中にありました。
しかし、すぐに大問題が。中国が元の元に統一されたのです。御存知モンゴル系民族。高麗は武力で独立を維持できるわけもなく、元に隷属します。もちっとやわらかい表現が使われていますが>教科書

このへんは(韓国人的に考えて)おもしろくないのでさらっと行きましょう。

さて、このとき高麗は自主性を失い、元の命令にやむなく従わなくてはなりませんでした。そして、元に従わない生意気な国があったため、この征伐をせよとの命令が下ったのです。そう、わが弟分日本でした。まあいいや。弟だし。という理由で我々は日本をボコるために動員され、無理やり征伐に行かされたのです、平和を愛する民族なのに。
そして、悲しいことにその二度の征伐もたまたま吹いた台風だけのせいで負けました。台風死ね。



まあ神風が吹いたのは事実ですが。日本征伐をハンに進言したのは高麗の人ですけどね。ジョークみたいに見えますがマジでこんな調子で書かれているようです。ほんとかよw
まあ、元がある程度強要したことは事実見たいですが、火種は自分でまいたんですし。
そもそも、最初「日本へ。隷属しろや」くらいの軽い文書のお使いを命じられたのですが、最初”雨が降ってきた”という理由で帰ってきた(日本のことを進言した人が)ため、激怒されたとかのユカイエピソードもありますけどねw
その後もう一回持って行ってこい!返事もらうまで帰ってくんな!って二度めの使者として日本へ渡ったのはいいですが、鎌倉はガン無視決め込んで放置してたら脅迫もせずにそのままスゴスゴと帰ってったわけです。

そりゃ鎌倉もナメるっちゅー話やねん。しかしまだ元寇かよ。
とりあえず元寇で一回区切るか。

さて、記録によれば後の忠烈王はハンに対してこんなことを言っていたって記録もありますけどね(超意訳)
「私が思いますに、東の小国小日本は未だ王の威光を知らず、隷属しておりません。ここはひとつ、王の詔を発令し、私めに軍の一部をお貸しいただけましたら、たちまちのうちに日本の主を王の御許に馳せ参じさせ、ひざまづかせ、王のご威光にひれ伏せさせて御覧に入れましょう、ささやかながら私もその一助となればと望んでおります」

いやー、平和を愛する民族ですからこんな記録載せれませんけどね。

基本的にこれらの侵略行為はすべて征伐とかって書かれています。まあ侵略って書きたくない気持はわかりますが、じゃあうちらが朝鮮出兵を朝鮮征伐って書いてもいいよねって話です。
ちょっとムカついたから清を征伐した日清戦争や日露戦争も清征伐や帝政ロシア征伐です。戦争じゃないです。侵略でもないです。OK?

ってこんなん書いたらどこの団体がクレーム付けてくることやら。
というわけでここで一段落。くくられた部分だけを小中高と教えるわけです。どうなるかは容易に想像がつくかとは思いますが。

このあとに世宗の倭寇征伐とかもあります。世宗自体は高麗の王の中では有能な方ですが、倭寇征伐の際に戦場になった対馬はひどいことになりました。
まあ、応永の外寇は実施したのは実権握ってた太宗ですが。

応永の外寇についてはこれだけで本が書けるくらいの無茶話をしていますが、現在の対馬が韓国領であるとの論拠はここにあります。

応永の外寇は倭寇の征伐を理由に、倭寇の拠点となっている、として対馬への出兵を行ったものです。
もうどう見ても侵略なのですが、征伐とされています。この際にも太宗は対馬は高麗に隷属するものだという古文書がある、というよく分からない説明もしています。
この戦、対馬のおえらいさんが一時留守にしており、この島に民間人がほとんどであるとの情報を得たうえでの作戦行動でした。

当初は調子よく攻め込みましたが、対馬側の伏兵による反撃で押し返され、膠着状態となります。
対馬の宋氏に隷属降伏を要求しますが、これを拒否。この戦闘はそのまま停滞、後に対馬側から講和を申し出て、これを受け入れる形で高麗は兵を引きました。
このときの記録は面白記録が多すぎて洒落になっていません。

対馬につかまってた中国人を助けたが、対馬での日本の兵との戦闘においてのヘタレっぷりを見た以上生かして本国には返せない、とかマジですかと言いたくなるような記録がですね…。
そもそも初日の襲撃も民家2000件近くを焼き打ちしてるのに犠牲者が(ちなみに全員民間人でサムライじゃないっす)が100人ちょっと。とかね。

このときの記録は、高麗の記録としては珍しくはっきりと”敗北”と書かれているため、実際とんでもないほど手ひどく負けたんだろうな、というのがよく言われていますね。
さて、じゃあなんで対馬が韓国のものだっていう論拠になってるかっつーと、むこーの歴史研究班いわく「戦争には負けたけどこのときの講和で対馬に倭寇の制限のために形式的に外藩であると認めさせた」から、戦争の目的とする対馬の隷属化はなされた、という主張らしいです。

えーっと、戻ってド叱られるからお願いだから外藩として形式的に和睦を申し出てきたことにしてくれ、って言われてまあ仕方ねぇなぁってことでそうした、って話で、その辺も記録のこってるし、その点の反論はないんですが。

気が向いたらまた書くwwww

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