西…本願寺?

これは恥ずかしいですね…。元日本人でえっらそうに歴史講釈垂れ流して挙句新聞にまで載せた内容がまるっきり間違ってるとかマジ情けない脳みそですね。

日本人辞めてくれて本当にありがとうございました。沙耶です。

西本願寺が大きいわけは織田信長と戦うためニダ!


西本願寺。京都府京都市下京区にある浄土真宗本願寺派本山の寺院。
浄土真宗系では最大級規模の本山で、真宗大谷派の京都府京都市下京区烏丸七条にある伽藍を東本願寺と称し、その位置関係から西本願寺と呼ばれる。

寺院の正式名は本願寺。東西に分かたれた経緯は顕如と教如の分裂によるものですが、西本願寺はその中でも最も古い、親鸞の直系を標榜する大寺院です。
ちなみに先日いったお葬式は真宗大谷派でした。沙耶は実家が浄土真宗系だし母方はまた違うのでなんか新鮮なお経でしたけどね。尾張や三河は割と大谷派が力を持ってるようです。東別院なんかもありますしね。東はわりと分裂が多いのでよくわからないとこも結構あります。
あと新興宗教系は日蓮系の真言宗系が多いです。

さて。

ナンデスカコレハ

寺というよりは巨大な成(城?)のように見える西本願寺。 このように大きな寺院を建立した理由は、織田信長と戦おうとする僧兵の拠点だったからだ。



新撰組が拠点にしたことはありますが…。織田信長と戦った?誰が?西本願寺が?マジで?そんな歴史記録見たことないんだけど。参考資料の提示をお願い。

織田信長が戦ったのは、石山本願寺です。蓮如が隠居したのちの房と定めた寺院で、”現在の大阪城”の場所にありました。大阪、という地名も実はこの石山本願寺が形成した町にちなんでつけられた名前です。

蓮如は非常に尊敬を集めていた僧であったことから石山本願寺は本山である山科本願寺を圧倒するほどの門徒をかかえ、後継であった実如にその力を危惧され、山科本願寺と石山本願寺の間での戦いが起こります。
この山科本願寺はまさに城と言ってよい風貌であったといわれています。その記録と特徴から、近代城郭の歴史の中でももっとも重要視されるべき城郭であったと考えられます。
山城から平城への変遷の草分けでもあるようですね。

しかし、この山科本願寺ものちに法華経教徒と六角氏によって焼き打ち、焼失してしまいます。
その後、山科に代わり本願寺の本山として立ったのが石山本願寺です。

この石山本願寺が織田信長との石山合戦と呼ばれる10年にわたる大戦争を繰り広げます。このときに、石山本願寺は周辺を石垣で覆い、山科のごとく城郭化していたといわれています。

本願寺はそもそも親鸞の娘によって開かれ、3代目覚如が専修寺としてたてなおし、これが本願寺となります。しかし、蓮如が現れた頃、すでに本願寺は宗派としての力をほとんど失っていました。

これをたった一代で比叡山延暦寺や法華経、そして織田信長に匹敵するだけの大勢力に持ち上げなおしたのが蓮如であり、本願寺は蓮如以前、以降、そして東西分裂という三つの大きな節目にわけることができます。
ちなみに蓮如が出たことにより、勢力を増した本願寺は比叡山を刺激、大谷本願寺は焼き打ちされ、打ち壊されます。

その後は山科本願寺、石山本願寺を経て、織田信長の軍門に下ることとなります。このときに徹底抗戦を訴えた一派と和睦を進めた一派の諍いがのちの東西分裂につながっていきます。
信長と和睦したのが顕如、そして徹底抗戦を訴えたのがその子教如です。このあたりから信Onでも見かける名前ですね。

このときに一度教如は顕如を義絶していますが、その後天皇のとりなしによってそれを赦します。しかし、このときの確執は残り、また豊臣秀吉は顕如を筆頭とする穏健派を重視、教如らの強硬派を本願寺主軸から遠ざけるよう顕如に指示。
本願寺は穏健派の准如に引き継がれ、教如は中央から遠ざけられてしまいます。そして、関ヶ原ではこの二派は真っ二つに分かれていくのです。

そして、徳川家康によってその確執を利用し本願寺の分裂という状況を生み出されてしまいます。

さて。現西本願寺はそんな歴史の途中、そもそも秀吉の天下太平が成ったのち、のんびりと太閤秀吉によって建てられたお寺なのであって、本願寺が織田信長と戦ったのは事実ですが、西本願寺の霊廟が城として用いられた事実は存在しません。
織田信長と戦った石山本願寺はすでになく、そのうえには大阪城が築城されましたし、六角氏と戦った城郭である山科本願寺も城跡を残すのみです。

ちなみにこんな波乱万丈な諍いの歴史ですが、現在の東西本願寺は割と仲がいいですwwwwwww

ただ、東本願寺という名前は、お東騒動によってもう一個紛らわしい名前の本山が存在します。
京都の東本願寺とは別に、東京都台東区の浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺を本山とする”浄土真宗東本願寺派”という別の宗派があり、これは大谷派とは別の宗教となります。

一般に浄土真宗、と言えば京都西本願寺の浄土真宗本願寺派を指し、大谷派と言えば京都東本願寺の真宗大谷派を指しているかと思います。このほかにもぽこぽこ分派はありますが、でかいのはこの二つでしょう。

華厳宗の伝達については新羅経由なのか唐から直接なのかははっきりしておらず、断定できるものではありません。
東大寺盧舎那仏像なんかがこの影響をもろに受けたものですので、奈良の大仏が~のあたりはそのとおりなのですが、それが新羅との関係性を立証できているかというと別問題です。

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