夏ですねー…

暑いですねー…
蒸しますねー…
しかもそろそろ梅雨ですねー…

沙耶です。


うっとおしいんじゃボケがぁぁぁぁぁぁぁっ!

あーもうあーもう! アツいはじめじめするわうぜぇ!!!!!
てわけでオカルトでも話そうぜ!(なんでやねん

九十九神って知ってますか九十九神。百に一足りないから白くなってしまうのが白髪。九十九髪。だから白寿。どうでもいいですね、そんなこと。

ももとせにひととせ足らぬつくも髪 我を恋ふらしおもかげに見ゆ
なんて歌もありますしね。

さて。九十九神。よく見かけるのは付喪神の表記の方でしょうか。元来は九十九神と言い習わします。
何かっつーと。長いこと使われてきた”モノ”に宿”タマシイ”。

非常にポピュラーな神様でして、ありとあらゆるものに宿ってしまいます。

さて。じゃあ九十九神ってのはいい神様なのか悪い神様なのか。という点に行ってみましょうか。
九十九神とは、”モノ”が長い年月を”経る”ことにより”モノ”から”御霊”へと変化することを指しています。物の怪、って言うでしょう? ”物”が”モノ”に変化して、怪異を成すから物の怪なんですよ。

古来より日本は土着信仰であり八百万の神、万物に御霊宿りたり、ですから自然物のみならず、ひとの手により生み出されたものもまた”モノ”なのです。

しかし自然物や生命に比べればその御霊は弱く、九十九の年を経ることにより、その御霊を昇華するわけですね。九十九の年、というのはその人工物に課せられた修業期間だと思えば問題Nothing。
ちなみに自然物の御霊の強い弱いってのはほとんどの場合その自然物の大きさによって決まります。
つまり路傍の小石の力と富士山の持つ御霊の力は根本的に全然違いますし、何年小石が修行しようが富士山にはなりません。これは自然物が生み出されたあるがままの状態を受け入れることで自然界の御霊が成り立っているのですから当然のこと。
しかし、人工物はこのルールに当てはまりません。大きさなど、作るものによって変わるのです。大きいものほど力を持っているわけではありません。そこで、共通のバックボーンとして九十九の年を”経る”ことにより、どの人工物も同じ力、御霊を得るというのが九十九神の捉え方ですね。

もちろん、人工物の材料として強力な力を持つ自然物を利用すれば、当然そのつくられた人工物は最初から大きなゲタを履くことになり、他の人工物が九十九の年を経るステップを飛び越すことも少なくありません。
花咲か爺さんの話などはその典型ですね。

では、いい悪い、の話に戻りましょう。もともとこういったアニミズム的な汎神論ってのは神を自己の投影としてとらえるものです。ですので、九十九神成りたる際に使用者が善であれば和御霊の様相を表し、悪であれば荒御霊と表す。
因果応報の因果律も取り込んでいる感はありますね。

しかし、同じ人工物でも例外が存在します。
先にもあるように、もとよりその材料が霊験あらたかなものであればはじめからその人工物は大きなゲタを履くわけです。これと同様に、精魂こめて作られたものは最初からある程度の下駄を履きます。いわくが多いのは刀剣類でしょう。お守りや護符といったものは、元来の魔術的基礎をモノへ投影するものですので九十九神とはまた異なりますし、仏像などが守ってくれた、というのもこれはこれでまたちょっと異なります。偶像崇拝の概念に入ってきますしね。しかし、刀などはそうではありません。
刀剣類は造り手の思念を強くうちこむことで最初からある程度の下駄を履きます。しかし、神としての神格は幼いわけですから、その御霊の修業期間に多くの血を吸えばその怨恨の念をまともに受けてしまい、和御霊の性質を喪失していき、荒御霊に成長していくわけです。これが妖刀とよばれるものの形成過程です。

では、他にはないでしょうか。あらかじめある程度の下駄を履く、という部分を持つ、という意味で、最終的に九十九神に到るのではないものであれば、あります。

人形。フランス人形だろうがキャベツ人形だろうが市松であろうが。人形は、その作成過程そのものがある種の魔術なのです。蝋人形もそうですね。
西洋では魔術体系として形而魔術として成立しますがね。日本でもそれを利用した魔術はあるでしょう?

そう、丑の刻参りですね。形而魔術とは、形の似たものは同じ影響を及ぼし合う、というもの。
藁人形をヒトガタに組んでいるのも、ヒトと同じ形を作るからです。同じ~~のものは同じ性質を有する。
魔術体系での基礎として存在する理念。

音を共鳴因子として考えれば真名やマントラ、同音異義や歌に起因するかけ言葉などがこれらと同様の意味を有してくるし、形に共鳴因子としての要素を求めればその形状そのものに意味を求めたルーン文字や魔法陣、セーマンドーマンやダビデの星などがその体系を持つ。

よって、人形はヒトガタになぞらえた魔術。ヒトガタとは人の御霊のヨリシロとしての存在。
よって、人形は九十九神になるはるか前に人の御霊を共鳴させてその下駄の力によって高い霊験の御霊を有する付喪となる。
生死を問わず人の御霊はヒトガタのヨリシロには引っかかりやすい。

あなたの家にはありませんか? ちょっと古めのお人形。
大事に扱っていますか? 大切に取り扱っていますか?

妖刀のように人の”モノ”をぞんざいに扱う意識が向けばヨリシロに宿った御霊は荒れ、大切に扱えば和御霊へと振れる。もっとも入り込む御霊によってはそんなの関係ないのかもしれないけれど。
人形は持ち主への災厄を肩代わりしてもらうヨリシロでもある。これもまた形而魔術の性質。それゆえに人形はひときわ大切に扱われなければならず、その役目の始まりと終わりを言い渡すのは持ち主の責務。

モノに始まりと終わりを言い渡すのはすべて持ち主の責務ではあるんだけどね。
あ、ちなみに、モノ、あるいは形のない「約定」などに命令をして始まりと終わりを作るのもまた魔術体系の一つ。

え? 知らない? 何言ってんだよ、よく知ってるはずですよ。

嘘付いたらはりせんぼんの~~~ます、指切った♪

ほーら、子供の声が聞こえてますねー…。あ、この命令系の魔術体系、明確な「契約」に属しますので反故にしますと逆凪をうみます。
あなた、いくつはりせんぼんを呑まずに生きてきましたか?

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