じゃーなりずむ????

公平中立なそんなもんが存在するなどと、そんな理想妄想は10年も前に捨てましたよ。

産経新聞が、みんな!オラに力を分けてくれ!って騒いでました

広告料に100%頼っていない。だからこそ、広告料を払ってくれている企業や団体の悪口も書けるのです。

すまん、お前悪口書いてたのか。ジャーナリスト辞めることを勧める。


まあ、悪口のくだりはかなりアレだが。産経の言ってることはそれはもうその通りなんだがな。
あまりにも一面的すぎる。目先の事象だけを捉えて論評している状態で、経緯もそしてこれから先の展望や展開もまともに考慮されていない。

目の前に10円玉が落ちているので拾うのに必死です!って感じで。5m先の1万円札すら見えていない。
ああ、結局ジャーナリズムなどどこにもないのだ。

新聞が失われつつあるのは、いくつかの事象による複合現象であって、決してニュースがただで見れるから新聞はいらないや、なんていう短絡的な話ではない。

ことのすべての起こりは、ネットの拡大にあるのは確かだ。
だが、それは情報が無料になったことと直結していない。

インターネットの拡大によって起きたのは、情報のエントロピー拡大の驚異的な加速と、双方向通信という形での意見交換空間の形成。

知ってのとおり、メディアは一方向通信による一意的な視点提供にすぎない。
ジャーナリズム、というものが何か、そして新聞やTVがもたらしているものが何か、ということを理解していれば、新聞一紙で世相を斬るのがどれほど危険かは認識できていたはずで、ネットによる情報氾濫が起きる前から、知識人、とよべるべき人々は決してひとつの新聞や一つのTVニュースに頼ったりしてはいない。

もちろん、これはあくまで受け手側の論理であり、発信側にそこまでの意識があるかどうかは知らない。
発信側は自らが正しいと信じるものを報道するのだから。

さて、双方向通信と情報のエントロピーツリーの拡大によって、インターネット上には様々な情報が相互に行き来を始める。
これは、ディスカッションの基本を構成する骨子でもある。情報源をそろえ、自論に沿った情報を提示し、正当性を主張、それに対するアンチテーゼは対抗論を展開する。

そして、この議論に“参加していない”人員がこの論戦の裁定を下すことに、ネットの本当の意味と価値が存在する。それこそが、どっかのだれかさんが大好きなサイレントマジョリティなのだから。
ただし、現状ではネットはその大多数というにはまだその大きさは比較的小さい。
購買層、富裕層の主力である団塊の世代がまだギリギリ現役であり、ネットによる恩恵を受けた世代はまだ比較的若い。
このため、過渡期特有のゆがんだ構造が生み出される。

すなわち、古い形態にしがみつく大半を占める旧世代と、新しい世代との世代交代。それは粛々と時間を経ることで入れ替わっていく。
ネットによる功罪はただこの一点だけ。世代間の情報格差を、大幅なエントロピーの増大を生み出したことで既知の世代間闘争に比べ、大幅な情報格差を生んでしまったこと。
情報を有している側が若年層であり、弱者に属しており、情報格差の恩恵をあまり受けていない層が上位層にあること。

この入れ替わりを強制的な武力介入で一気に推し進めるのが革命とよばれるものだ。
もちろん、いち早くネット側に傾いた高年層もいるだろうが、大多数という意味では若年層と高年層ではその隔たりは大きい。中間層にあたるのが現在30~40代の労働主力にあたり、この部分でもまだその半数以上は情報サイドには流れていないと思っていい。
何しろ、技術革新の速度が速すぎるため、それに追いついていくにはある程度の柔軟な思考と行動が必要となるが、それを実行し続けることが年を追うごとに困難になるためだ。
産業革命が短いスパンで起きているのと変わらない。

さて。新聞やTV、ラジオといった一方高通信の衰退は上記をトリガーとはしているものの、この世代間交代とは別の話となる。

戦後の貧困期と高度経済成長期を支えた団塊の世代は、戦争に対しての過剰なまでの反省を示し、朝日をはじめとする多くのメディアを左に傾けていく原動力となる。これが今の日本を作り上げたことは間違いない。国外の騒乱と冷戦をよそに、核の傘の下で自衛力に傾注することなく、その生産力を余すことなく発展に注いだのだから無理もない。

メディアそのもののイデオロギーが傾くことそのものに問題はない。それはメディアの本質でもあり、一方向通信の特徴でもある。それは規模の小さい大本営発表にすぎない。一方向である時点で、受け手はそれを受け入れざるを得ない。
報道の真偽を確かめる手段が、報道しかないのだから、受け手に選択の余地はない。

このため、いったん傾き始めたイデオロギーは教育を通じて若年層にも浸透し、全体を一方のイデオロギーへと傾注させていく。もともとが高度経済成長期であったことも含め、大多数となる「数の民衆(労働力)」による左翼化と富裕層の「金による支配」による右傾化は拮抗からやや左翼よりに傾き、現在の左巻きメディアを生み出していく。

しかし、ここに双方向メディアという全く新しい手法が鳴り物入りで飛び込んできた。

双方向メディアは、従来の一方向に比べ、その柔軟性の高さが際立っていた。ただし、その情報のエントロピーの肥大化速度が高く、その内容は玉石を取りまぜたものであった。
そのため、双方向メディアでは当たり前のように資料を持って論ずる、というスタイルが確立していく。
これは、従来の一方向メディアが恣意的に選び、提示した資料のみを盲信せざるを得なかったことに比べ、飛躍的な進歩となっていた。
もちろん、一方向メディア時代でも調べようと思えばさまざまな手法で調べることはできた。ただ、それには莫大なカネと時間が必要だったというデメリットを持っていた。
デジタルデバイドによる資料のデジタル化は、この”資料に到るための金と時間”の一部を大きく圧縮した。
これは、本来メディアが企業体として取材を行っていくのにあたって必要だった部分の一部でもある。

これにより、一部の事象に関して、一方向メディアと双方向メディアにおける原資となる資料の差異は消失した。もちろん、そうでない部分も多い。

そして、その一部の事象においてもたらされたのが、メディアへの不信感だった。

ディスカッションと資料の提示による組み合わせにより、これまでの一方向メディアによる世論誘導と民衆コントロールの具体的な事象と手法が明らかになって行ったことが大きい。
ここで大きな打撃を受けてしまったのが朝日だろう。読売に次ぐ全国紙であり、その影響力の高さを利用した、左翼傾注の制御手法の多くは、この資料の差異と一方向メディアであることの利点をもってしてなされたものだった。
もちろん、大なり小なり他の新聞やTVなども同じものであることは、明らかなのだが、その手法の強引さなどにおいて抜きんでていたのは朝日だった。

これが、一方向メディア全体への不信感となって表面化するのに時間はかからなかった。

だが、一方向メディアもそれに手をこまねいていたわけではない。まず行ったのはネットの暗部を攻撃し、その危険性を声高にすることによって、双方向メディアの信用失墜を狙うものだった。
だが、もともと玉石混合な情報体にすぎない双方向メディアは、その内部がピンキリであることなど利用者にははじめからわかっていることだった。メディアリテラシーにくらべ、ネットリテラシーはその面でかなり早い段階で整備され尽していた。ネチケットだの、教えてくんだのというのはその一端でもある。

この手法での攻撃効果がないことを見て取ったメディアは、双方向メディアとの融合もしくは懐柔を目指すことに主眼が置かれる。これが、ネットニュースの展開の素体でもある。
より信頼性の高いソースを持ってして、ネット上における「真偽の怪しい資料を自ら検証していく」という文化を”煩雑なもの”として衰退させることができれば、双方向メディアもまた一方向メディア同様に制御可能だと考えた結果だろう。

民衆を自分がコントロールしているのだ、という権力者的視点はメディア支配においては麻薬的だったのだろうね。
民主主義において制御下にある民衆の数、はそのまま権力と直結する。権力は金を産む。
これは極めて単純なロジックにすぎない。一方向メディアにとって双方向メディアほど腹立たしく、うっとおしいものはない。だが、双方向メディアで育まれた”思考する民衆”という新たなメリットを民衆自らが放棄しさえすれば、報道の即時性の高さなど、双方向メディアには一方向メディアにない利点も多い。

だが、メディアのこの思想は決してメディア本来の立ち位置である弱者視点やレジスタンスペーパーなどではないことは明らかだ。メディア王を例に引く必要すらない。
”情報”が金に直結してしまった時点で、ジャーナリズムなど消えてしまったのだから。

このため、一方向メディアは現在、双方向メディアの暗部の攻撃を続行するとともにその取り込みに躍起になっている。
双方向メディアは一方向メディアにくらべ、単一の組織体を有しない。それゆえに、一方向メディアが完全に取り込むこともできないが、かといって一方向メディア側の工作も防止できない。ただ、なるようにしかならないというずいぶんなメディアでもある。
一方向メディアが双方向メディアの文責のなさを強く批難するのも、このなんとも言いようもないメディアと言っていいのかどうか分からないような特性のためだ。
だが、これを最大限に利用しているのもまた一方向メディアや権力サイドではある。そして、これらの証拠がつかまれると、それは祭りとして祭られる。
すべてを取り込めない以上、一方向メディアはもう一つの手段をもって双方向メディアを封じる動きを見せている。それは、規制という形で統制をもたらすことで制御を試みるものだ。

ニュースがただでは提供できないのは事実だ。それは動かし難い。
ネットがいくら進もうと、リソースを集めてきて体系化する作業は誰かがやらなければならない。
※双方向メディアではそれを野放しにするという手法も取り得ることはできる。

だが、それが”紙媒体”である必要性はすでにない。紙はあくまで伝達媒介であり、その物理手法がネットに置き換わっても問題はない。有料のニュースサイトで済む話だ。
それが現実味がない、と感じているのはネット=無料などというステレオタイプイメージを持ってしまっている人間だけだ。
本当に正しく平等公正な報道をやってみるがいい。一切のイデオロギーの介入を受けず、事実だけを淡々と伝えるメディアを。人間が作る以上、そんなもの作れやしないが、それであれば金を払うに十分以上に値する。ジャーナリズムに払い渋るお金などありはしない。
それが、本当に、ジャーナリズムであるなら、だ。
本来情報が有料なことなど当たり前なのだ、この資本主義社会においては。
無料無価値に貶めたのは、ほかならぬメディア自身ではないか。ジャーナリズムを捨て、イデオロギーに傾注し、スポンサーに媚びを売り、電通に支配されて。
いったい一方向メディアにいつ僕らの購読料だけで運営された時期があるというのだ。あるというなら示してくれ。

スポンサーを受けなければいけない、というのは論理のすり替えにすぎない。
スポンサーが民衆であった時代に、民主主義が守られていたのか?
それを守っていたのは一方向通信メディアであったのか?

では、なぜそれを守ってきたメディアに我々は不信感を抱かなければならない状況になったのだ?

不信感を抱かれた原因は、事実と報道が乖離したからだ。
その乖離の要因は自分たちこそが一番よくわかっているだろう。わかっていてなおかつこの文章を書いたのなら、「メディアにも反省すべき点は多い」という一文すら入れられなかったその保身姿勢に朝日と同じ狢の匂いをかぎとれてしまう。
本質がまったく同じである、と。
気づいてすらいないなら、メディアリテラシーは一体どうなっているんだ、と叫びたくもなるではないか。

もはや一方向メディアはイデオロギーを自由に謳歌すればよい。一方向であるのだから、最初からイデオロギーの奴隷にすぎない。
自由に左右好きな報道をすりゃいいじゃないか。好きなスポンサー囲って、おべっか記事でも並べていればいい。
そうしてくれれば、双方向メディアは、一方向メディアとは異なる、”調べ、検証する”という能力に特化するメディアとして、立派に育つ。
正しさなど、人の数だけ存在する。

メディアの正義が世界の正義になるわけでもなければ、ぼくの正義が他人の正義だとも思わない。
それを、明確に指し示したのが双方向メディアという存在だ。
それこそが民主主義だろう? 意見を述べ合い、正しさを模索し、より前に進むために。
身分だの所持金だの肩書きだのに左右されずに、忌憚のない意見を交換できる場所。

違うか? 資本主義=民主主義じゃないぜ?
民主主義ってのは、民が自分で考え、自分で決めて、多数決を取って、最大多数の最大幸福を目指すシステムだ。民主主義が軍国主義を支えるならそれもまた正義。
民主主義が社会主義システムを支えるなら、そう変節するのもまた正義。

それこそが民主主義の姿だろう。メディアごときが民主主義を支えたなどと吠えるな。
民から思考する力を奪い、社会奴隷とみたのはメディアではないか。

少なくとも、思考する場を与える双方向メディアは決して民主主義に反してはいない。
メディアがイデオロギーとスポンサー一色に染まろうと、双方向メディアが来るものを拒まない肥大するエントロピーであることをやめない限り、双方向メディアの支える民主主義は死なない。

紙媒体のメディアが死ねば、民主主義が崩壊する条件はたったひとつ。

思考しない民が紙媒体の指示に従って動くレミングスであり、それが社会の多数を占めた場合

このときだけだ。
だが、これはメディア支配という形で民主主義を隠れ蓑にした立憲君主システムでしかない。
紙媒体が収入の柱である現時点で、紙媒体を捨てることができない、という論調ならば分からないでもない。

だが、それに民主主義は一片も関係ない。

分かってて言っているのだと信じたいのだがね。知識人、報道人という肩書をしょって、肩書無きメディアである双方向メディアで気炎を吐くならば、もう少し論客としての風格を漂わせていただきたい。
これでは子ども相手に説教しているのと変わらない。

市井で能天気に生きている一市民ごときすら説得できない文章で何をほざくか。
保身としても成立しない稚拙な論説で、新聞を買えなどと。笑わせるな。失望させるな。右を貫いてきた誇りもないのか、貴様。
世間が左に傾く中、気炎を吐いてきた気概はどこへやった。

己の寄って立つイデオロギーとメディアとスポンサーを誇れ。そして胸を張って提灯記事を書け。
それこそが新しい時代の新しいジャーナリズムだ。
どれほどスポンサーが巨大であろうと、双方向メディアのすべての発信は買収できない。
双方向メディアの発信はすべてイデオロギーとスポンサーに寄って立っているぞ。
みな自信を持って提灯記事を書き散らかし、その上で議論をしているのだから。

アサヒれ。盛大に。あれは、新しい世界のジャーナリズムだ。素晴らしいじゃないか。
アサヒればアサヒるほど、双方向メディアは育ち、巨大になり、近く君らと肩を並べるだけの勢力になる。

さあ、アサヒって呉れ給え。それが、世界の糧になる。礎となる。
歴史に名を刻め。風呂敷を広げろ。なぁに、かえって免疫がつくさ。

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