休日なので

サマーの詩をゆっくりまた頭から読み直していたりしました。
ぱっと見とっても突飛な表現が多く、表面だけを追ってしまうとコトバの奔流に飲まれやすく(もちろんそれだけで十二分に楽しい詩ではあるのですが)、じっくり追っていくとやはりとても感性の鋭いとこのある詩でもありますね。

沙耶です。コトバをいじくって遊んだことのある人間なら、サマーの(子供じみた、と言えばそれまでなのかも知れないのですが)感性ってのはうらやましくもあり、それができなくなってしまった大人ってものになってしまったんだろうなぁ、と。


さて。本来詩なんてものは読んだ人それぞれの感性で捉えていくものですから、解説とか教育とかするものでもありません。芸術なんて皆そうだと思うのですがね。

私が彼女の詩から感じたのは意味論の形骸化ですね。
コトバっつーのは本来、通念上の意味を持ちます。

信号、という単語が信号という意味を持ち、それが信号であることを知らしめます。
これから意味としての信号をとりのぞくと、それは「しんごう」という音に分解され、音韻のみのただの音になります。
この音そのものが意味を持つのが言霊と呼ばれるもので、同音の発音が共通意味と共通存在に通じるとした考えですね。

いったん単語から意味を取り除き、音韻のみに戻してやり、その後、己の価値観と世界観でその音韻に新しい意味と世界を与え、再構築し、その再構築されたコトバで記述します。

これが、サマーのやった詩歌の記述手法かと思います。意識してはいないとは思いますが。

この技法は、本来誰でもしてきたことです。
特に子供時分のころに、誰しもがしてきたことで、その認識世界が実世界と適合しない、と感じるとそれを修正し、実世界にあわせていくように、自己の世界観を変えていくのが、一般に成長と呼ばれる現象です。

この部分が停滞したことによって生まれるのが、知的障害などを負ってしまい、世界観を実世界からの投射で変革するプロセスを打つことができなくなってしまった方々の描く芸術作品群で、その純粋さに惹かれる訳ですが。

勘違いしていただきたくないのは、彼女がそういった方々の芸術だと言っているわけではありません。
そこからさらに一歩踏み進めたところに、彼女の詩歌は存在しています。

彼女は確かに、意味論の形骸化をやってのけ、いったんコトバを再構築しています。後日の避難所での彼女自身の解説からもわかりますが、彼女の単語には彼女にしかわからない、あるいは認識し得ない意味が含まれてしまっており、他人がそれを類推することはほとんど不可能な領域にあります。

ヤラヤラヤーイとかにぽ、とかの単語表現ですね。

既存の何か、に投射しておらず、それぞれ現実に存在する”何か”の意味を持っているにもかかわらず、現実世界のコトバにない言葉ですから、ここから実在する何か、を類推できるのは彼女本人以外には存在しません。

そして、これが他の”実在する単語”に対しても行われていない、と考えるのは不自然でしょうね。
つまり、彼女の詩でリスと書かれていても、それが本当に現実世界のリスなのか、なんなのかは、彼女以外に知りえようがない、ということです。

これは、常識とか一般論とかそういうものを身につけてしまった人間にはとってもムツカシイ作業で、まずこれすらもたいていの人には困難です。
どうしたって、自分の知ってる似たような意味の単語などに意味を分類したくなってしまうからです。
そうしないと、その場ではできたとしても何年かたった後に自分でその意味を抽出することができません。
言い換えれば単純暗号化の技術といってもいいでしょう。

プリンタというコトバの意味をお茶碗、に結び付けて
「今日お茶碗を買った」
という文章を作り出している、ということです。この場合、どっかにお茶碗=プリンタと残しておかないと、私たちはこの文章からプリンタを買った、という事象を抽出できません。

この対比記録を彼女は記憶の中に残し、なおかつ詩歌を見れば自分がそのとき何にどの意味を投射したのかを抽出できる点で、ある意味”彼女にしか理解できない”詩歌になっているわけです。
その場その場だけで意味論を崩壊させることは理性的にも可能ですが、それは最終的に”誰にも理解できない詩歌”に成り下がり、この”理解できる人間が一人だけ存在しうる”という決定的な差異を生み出せません。

まして、お茶碗などの実存在への仮投影ではなく、創作単語への投影までやってのけられると、もはやそこは彼女の世界。
ここまでの手法は、一般的に幼少時などにはよくそれぞれの中で起こる現象であるため、誰しもが体感してきたことです。

問題はここから先。

彼女の詩歌には、その”幼少時におきる精神構造”の表現に加えて、きわめてダークでブラックな側面も持ちます。
いわゆる、敵意、害意、悪意。それはとっても些細なものですが、直情的に表現されるそれは、幼少時の精神構造と言語表現の領域とはあまりにもかけ離れた明らかに成長をした精神構造の世界。
言い換えれば、大人になっていく精神そのもの。

このかけ離れた二つのコトバが同時にたった一つの詩歌の中に凝縮されてしまったこと。

これはですね。
コトバを操ることをしてきた人間にとって。

あまりに衝撃的でした。
あってはならないことでした。

白と黒が同居し、融和し、それでいてなおかつ灰色になっていない世界観。
灰色の世界観、というのは、一般的に過渡期にあたる思春期の世界観ですね。
しかし、彼女の世界のそれは、混ざり合わっていない。
そして、卓越的な表現能力。意味論を崩壊させた後の投射先単語の選択内容。

衝撃的としかいえなかったですね。正味の話、天才ってのはこういうものかと。そう思わされるほどに。

文学板にはこの詩歌をただの狂気詩と捕らえたひともいたようですが、私にはコレが狂気詩には見えません。狂気、といってしまうにはあまりに現実を知り、それを描写しすぎているし、写実というにはあまりに意味論が崩壊しすぎていた。

その絶妙すぎるバランス。

それだけの芸当をなしていながら、詩歌としての形式体裁を踏んだ音韻の技巧表現(単純に詩歌技巧としての表現にはまだ甘いところもありますが)。
定型詩、不定形詩として十分に通用しうる、表現形式という制約の中で、あまりにも見事に意味論の崩壊と再生、風刺と写実を同居させてしまっていた。

彼女がこれから先、どのように成長していくかはわかりませんし、こういう才能というのはもっとたくさん生まれてきていて、たまたまその中でも運の良かったものだけが世間に出てきているのかも知れません。

ですが、彼女の詩歌に惹かれることは、疑いようもなく事実であり。
それがたまたまVIPというごみための中に落とされ、世に出る道が生まれてきたことはとっても喜ばしいなぁ、と。

みなさんはどう感じました? 感じたまま、それが詩歌の楽しみ方です。

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