流石底辺

としか申し上げようが無い。沙耶です。

「いくら電力を使いまくっても、脱原発は主張できる。矛盾してていい」

流石の毎日。底辺中の底辺だけはある。言うことが凄まじすぎてなに言ってるのかわかってないだろう。

【毎日新聞】「生活保護費でパチンコは不正受給ではない」「不正受給を取り締まっても受給者は減らない」

こちらとあわせて読むと破壊力倍増。


まず最初のほうから行こうか。

>意見とは本来そうだし、特に倫理について語る場合、地位や経歴、立場、ふるまい、過去との一貫性にとらわれず、どこまでも自由であっていい。

とあるのでつまりこういうことになる。
自分の手を汚すこと無く(手法はなんでもいいけどね)他人を自殺や死に追いやってきたような人間。例えばそうだな。君らの大好きな東条英機でもお出まし願おうか?
彼が「戦争はいけないことだ」とか「人が死ぬのはいけないことだ」なんて言いながら戦争の準備を着々と指示していたとして、それらは倫理に関することでどこまでも自由であるべき。ということになる。

もちろんこれがアドルフ・ヒトラーでも構わないし、大企業をM&Aで解体し、経営者を死においやり続けたハゲタカの連中でも構わない。

さて、君はこの主張で何を言いたかったのだね? 倫理に関することだから反論するな、というならば、当然君等も東条英機やヒトラーを批判すべきではないな。彼らとて戦争が最終的なものであり、その前に回避すべき行動も示したはずだよ。
歴史的にいうならば、避けられない戦争でもあったはずだし、彼らのみにその責が逝くべきものでも無いことは明白だ。

彼らの罪があるとすれば、それは”負けたこと”ただその一点になる。

にもかかわらず、君等は彼らを声高に批難するよね。それはなぜだ? つまり、批難をしてくれるな、という主張ではない、と認識する。
ではなんだこれは。駄文以下のなんだ? ぼくはこう思いますまる。それ以上でも以下でもなく、ディベートでもディスカッションでもない。意見表明以上でもなく以下でもない。

無論、それが清廉潔白な口から放たれたものならば意味も変わろう。

ナイチンゲールやガンジーが唱える命の重みと、ヒトラーのいう生命の大切さは、言葉の重さに変わりはない。

信用度の問題なのだ。受け取り手の。
それを聞くものが、その発言者の信用度に比してその言葉の重みを変えるのだ。

つまり、人を死においやりまくった人間が、たとえそれが法で裁けるものではなかったとしても、傍目に明確にその人物によって死に追いやられているのが明白でありながら、その人物の言うところの「命は大事だから人殺しはいけない」なんて言葉を、信ずるに値するものか、という問題にほかならない。

そして、毎日新聞はこう言いきったのだ。

信ずるに値するし、発言者が誰であれ問題ではない。と。
過去のすべての行為は無関係であると。

毎日新聞が過去にしでかしたことも、全く無視して毎日新聞が反原発というのはそれだけで、それだけを評価すべきであると主張したのだ。

盗人猛々しいとはこのことである。第三者がそれを言うならばまだ傾ける耳もある。

だが、ヒトラー本人が東條本人が言ったようなものだ、これは。
主張する以上それを守るのかと思えばそうではない。この論説はこの一文で完全な矛盾を提示する。

すなわち、彼らの過去の行為を問わないとは、未来の行為も問わないのだ。あらゆる柵から自由とは、現在過去未来、何をしようが今の一言の価値を変えることはない、ということだ。

つまり、彼らはこれから先、当然のようにヒトラーや東條を今まで通り批判するだろう。
その行為と発言に関連も無ければ意味もない。

これほどの傲岸不遜があったものか。これほどの無責任があったものか。
言いっぱなし投げっぱなし。何ひとつ守ることもなく、何一つ責を持たず。

これが「新聞」を名乗るか。これがメディアを名乗るか。
ここまであけすけにメディアの本音をさらけ出した論説は実に珍しい。
これこそ、この一文こそ毎日新聞というメディアの本音の露呈にほかならぬ。

実に明快かつ胸糞の悪い最悪の一言だ。そうだ、貴様はこの一言では何らの法も犯してはいない。

だが、発言者を「信に足らぬ」と断罪するのは私の自由であろうし、倫理は全てから自由なのだろう。
私が信に足るだけの人生を送ってきたかどうかはこの際問題ですらないのだろう。
私は貴様を信に足らぬと断罪する。告発する。

そこに私という個人の責任は一切負わなくてよいらしい。ならばいくらでもかけるというものだ。気に入らぬ誰かの悪口も、リアルの情報も、いくらかきたてようとそれは罪にはならぬ。それが倫理であると信じて居るならば、そこに過去、未来の行為、思想、すべてから解き放たれて自由であるべきなのだそうだ。

なんだその無法地帯は。

倫理とは貴様の都合のよいように使われるべきルールではない。

倫理とは貴様が自由勝手にねじ曲げて良いものでもない。

問われるべきが未来への負債の是非であるのだというのは理解もできように、このくだらぬ一文によってそのすべてが信に足らぬ。

つまらぬ一文を付けたばかりに、貴様の信はいかほどを失ったか。もとより失うべき信ももはやないのかも知れぬが。
未来への負債を先送りすべきではないというのは理解する。ならばその技術の喪失に対し、本来はディスカッションとディベートによって、”ではどうするべきか”を論じるのが正しい意見の交換である。

ただ言いっぱなし投げっぱなしで応じる気はなく、その喪失に対し協力の姿勢を打ち出すこともなく、ただ自分は嫌だ、あれも嫌だコレも嫌だと駄々をこねることが正しい姿か。それが倫理とほざくか。

烏滸がましい。失せろ下物。その糞にまみれた口で二度と人の言葉を囀るな。
浅ましき餓鬼そのものの醜悪な身でありながら、その肥え太った腹を隠そうともせず、何を血迷い人間界に生まれたか。

餓鬼道に帰れ。戻れ。回帰せよ。

もはや恥を知れと言うことすら勿体無い。貴様らにはもはや身を振りなおし、信を立て直す許しすらありえぬと知れ。
迅く、死ぬがよい。これは呪詛である。


2つ目。

こっちも似たような話。そもそもパチンコ行くのを”不正”だとは言っとらん。
不正なのは取得のところだ。河本に関しては十分不正取得の可能性のある手法だろう。
そうでなくてもある種の脱法行為であったと多くの人は感じたのだ。

パチ行くのは別の問題だ。それこそ先の話ではないが、倫理の問題だ。

法の問題ではない。


明日食べるものもないのです、と泣きついて来た乞食にカネを与えたら、もう所有権は移動したのだから、とメシを買わずにパチに突っ込んでるのを見て、人はどう思うのかという問題だ。これこそ倫理だ。

100年先の未来の子供への倫理を説く前に自分の目の前の倫理を説け。

そんだけの話だ。
そんなもん認められんと感じた人が多いから、その倫理に沿った”法”にすべきである、という主張が上がっているだけだ。

毎日新聞は正直小学生の読書感想文以下の文章を書いて売っているようにしか思えぬ。
これは詐欺に他ならぬ。

詐欺新聞社は死ぬべきである。

あ、倫理なんであらゆるものから自由だから当然威力業務妨害でもないし侮辱でもありませんよ^^

毎日はこれがまかり通る前提で文章書いたんだってことを自覚しろ。

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