なんとも

書きたいことが多くて困るな。

さて、と。とあるblogが炎上してます。そのBlogは例の中山元大臣の例の発言で急速に炎上したようですが、日教組所属の先生の日常を書いたBlogです。

非常に興味深かったので、過去のエントリも最近のものにいくつか目を通させていただきました。
そのうえで、いろいろとつぶやいてます。


まあ、2chからを含めたただの攻撃コメントはともかくとして、匿名=すべて攻撃コメント、というスタンスは日教組教師=すべて反日極悪人という構図と何ら変わりません。

理性的にディスカッションを申し込んでる方、ソースを提示したうえで日教組の問題点を指摘している方、複数いらっしゃいますし、それらが明確なハンドルネームを有しないからと言って攻撃であるというのは教育という人間育成の基幹業務に携わる人間のスタンスとしては非常に不適切であると感じられました。

沙耶自身はそれほど日教組教師に振り回された経験はありません。
もちろん、教員の中にはたくさんいたのでしょうけど、そもそもその所属組織よりもその教員が個人的に好意が持てるか持てないかという点の方が大きなウェイトを占めていましたからね。

それはともかく、批判コメントも含めて消さず、またヒステリックに対応していない点は評価できます。
多少攻撃的な姿勢には見えますが、売り言葉に買い言葉的なところでもあろうかとは思いますし。

逆に日教組擁護側のコメントがあまりにも貧弱であり、むしろBlog主のまだ冷静な対応を著しく貶めている感が強いです。
脊髄反射的に十把一絡げにすべての批判系コメントを断罪し、議論放棄を勧めているコメントを読むにつけ、Blog主よりこいつらの脳みそのほうが問題な気がします。もちろん、そういうくだらないコメントを攻撃コメントと同類とカテゴライズしてフィルタしてしまえばいいのかも知れませんが、そうすると擁護コメントが限りなくなくなってしまいます。

が、本人に攻撃コメントと同レベルにしか見えないものを書いている意図はないんでしょうね。
しかし同じ土俵に立たせるにはあまりにも貧弱ですし、むしろいい餌にしかなりません。

コメントの応酬では、やはり日教組の問題点を強く指摘し、論理的に語られている方の言葉が重いですね。
中には感情論が先走ってしまっている方もおられますが。
Blog主自身は確かにある程度は冷静に会話できてはいるのですが、日教組の内部視点という点からは抜け出せないようです。
それでも、ここまできちんと話のできる日教組組員、というのは初めて見たかな。

苦労ちゃんはこの手のサイトめぐりの中ではいつものことなのでwwww
彼は擁護してるつもりなんだろうけど左翼側最大級のブーメランだからなぁwwwwwwwwwwwwww

よかったらご一読

沙耶は最近の記事を片っ端から読んでコメントも全部見てみました。


さて、それじゃ始めましょうか。前振り長いですね。
組織内視点と組織外視点。俗に主観と客観とも表現されます。客観は第三者視点とも言いますね。

ある種の集合体が構成されるとき、その組織内の所属員の視点は自己を客観する客観視点と主観視点を持ちますが、同時に”集合体”としての主観視点と客観視点が発生します。

たとえばこれは日教組に限った話ではなく、2chなどもこれと同じ現象が起きるのです。

2ch内部には決してそれの音頭を取っているトップダウン組織としての性質はありません。この点は日教組や~~支援組織といったものとは決定的に異なっており、方向性を決定づける要素を持ちません。
このため、2chがまとまりがなく、敵に回すと怖いが味方になると頼りない、と呼ばれる所以でもあります。

しかし、これはあくまで2ch内部視点にすぎません。すなわち、集合体にとっての主観、に当たります。
集合体の主観、とはその集合体においては常識、と称されるものであり、これから外れるものを異端をします。

2chにおいての主観とは、多様な思考と意図が存在し、嘘や真実が入り混じったごみ溜めであり、そこにはあらゆるカオスが構成されている、というものであり、端的に表現しているのが「嘘を嘘と見抜けないと(にちゃんねるを使うのは)難しい」というたらこ唇お化けの言葉でしょう。

一方で、では、これを外界から眺めた客観視点を取ったばあいにどうなるでしょう。

誰か一人の暴走は、その組織の性質を決める要素となります。

たとえば4年1組の鈴木君が人を殺めました。だから、~~小学校は怖い、といわれる。

これがもっとも典型的な例でしょうね。

2chは先ほども述べたように、多様な思考の集合体ですから、この中にはロジックの理解もなくただ面白いから、ただ誰かを馬鹿にしたいから、でばーかばーかって書いてみたり、死ねって書いてみたり、殺すって書いてみたりするやつがいるわけです。

2ch主観視点では多様な思考を持つのは当然のことなので、この暴走した馬鹿が馬鹿なだけ、で済みますが、逆に2chの外からの視点ではそうではありません。

2chというなんともあやしげなサイトから殺人予告者が出た。死ねって言われた。バカって言われた。
なんと恐ろしい。

当たり前です。当然そうなって然るべきです。

本来組織体や集合体というのは、その多くがトップダウンの機構を有しているのですが、これを有していない組織は無秩序に動く傾向にあります。っていうかそうなるにきまってます。

たとえるなら、組織トップを脳としてトップダウンで末端の組織、手や足を動かすのが組織、という名の生命であるなら、2chとは脳を持つ生命のようにふるまうように見える、実は脳みそのない生物の模造品にすぎません。

もちろん、脳の支配力に大小の差はあれ、この二つは形質的にまったく異なるものです。

しかし、それでも生物と、生物のように見えるナニカのそのいずれも組織的主観を持ち、組織に対する客観評価を受ける点では同じです。
組織に脳があれば、脳をブチのめせば組織は変わらざるを得ないのに対して、もう一方はツブすところがないわけですが。

マスコミが2chを恐れるのはそういった戦い方が存在しない、相手だからですね。

さて、2chの客観視点がそういうものである、というのは2chの外に攻撃に出る人々は本来的には理解しておくべきです。
これを補佐するのが、自分自身の思考とロジック、そしてそれを裏付ける一級の資料(ソース)であり、それなくして飛び出す連中は苦労君となんら変わり映えのしない、ただのゴミです。
ごみ溜めですからゴミはいっぱい入っています。

しかし、これは実はとても難しいことで、ある集合体に属しながら、外部視点を得る、というのは、自己レベルであれば容易に可能ですが、組織規模では非常に難しいのです。

なぜなら、組織主観が構成員にとっては常識として流通してしまうためです。
外部視点はまずこの常識の切り離しが行われなくてはなりません。

日教組にしても同じことで、一部の心ない人間がいて、そこだけをクローズアップするから日教組が悪く言われるのだ、というロジックは決して間違いではないでしょう。
しかし同時に、組織外の客観視点が”そう見てしまう”ことは理解し、把握しておかねばならない点です。
論戦を挑む側は、そもそも論戦相手を組織代表として扱ってはいけません。

組織としての評価と個としての評価は別であることをまず理解していなければならないのに、それができない餓鬼が多いですね。

さて。労働組合が左傾化するのは当たり前の話と言えば、あたりまえの話です。
ですので、日教組が左なのはなんら不思議はありません。

問題とされているのは、教育に思想が踏み込んでいるのか、否か、という一点に集約しています。
他のはもう数多ある瑣末事でしかありません。

そして、日教組の教員はこれを否定できません。なぜなら、証明のしようがない問いかけだからです。


言っている意味が分からない?


たとえばここに沙耶という一個の人間がいます。
超右翼系思想の持ち主です。

彼は、思想を切り離してなんらかの議論をすることができますか?

議論、とはある種の思想や理念を柱とし、それに付帯する問題解消の手続きとして行われる意見交換です。すなわち、思想から切り離すことができない、不可分の要素である、ということです。

教育は議論ではないため、ものすごく本質的に言ってしまえば、教育と思想は本来は分離可能な要素であるはずです。

しかし、私は誰かに何かを”教える”という行動をとる時に、自身の持つ経験や知識を伝達するにあたって、その経験や知識から思想による影響を切り離すことは不可能であると認識します。
教育とは、自身の知識や経験の伝達である、と定義すれば、教育と思想は不可分の要素となってしまいます。

これは、古来から教育者を聖職者と呼びならわす根拠となる部分です。
この、知識や経験からの思想分離とは、それを行うものに非常に苦痛を強いるものです。

自身の思想ではAが正しい、と認識し、学習した結果としての知識を持っていながら、同時に、Aを教えると同時に対立するBという知識を学習し、伝達しなければならないのです。
その二つに、均等の思い入れと重みを持って伝えなくてはなりません。
AがBより重くなってはいけないのです。

それゆえに、教育者は聖職者と呼びならわされました。研究者が聖職者と呼ばれないのはAしか追い求めないからです。
これは特に論理的学問である数学・物理系の学問に比べ、情緒的学問である文学、歴史といった方面で強く顕現します。

そして、人間が感情を有する生き物である限り、”そんなことは不可能”なのです。
人間の言葉にはイデオロギーによって左右された重みづけが、(どんだけ頑張ろうが)絶対に盛り込まれます。

それは、避けられませんし、不可避です。できるのは、あくまでその程度の軽重を決める程度。

日教組が労働組合であり、労組であるが故に左翼思想に染まるのはいいとして、ではその思想を持って教育にあたってはいないか?

という点は決して否定できません。

もちろん、個々の教員それぞれが、非構成員として思想を持ち、教育したって同じ事じゃないか、と思うかもしれません。
しかし、個人の教育と組織的構成力をもった集団に属する、という肩書を有してのそれとは、決して重みは同じではありません。

後者の重みは、前者よりもはるかに重い、と言えます。外部からはそう見えている。そして、構成員も否定のしようがない問いかけなのです、これは。

もちろん、個々の構成員に聞けば「そんなことはない、平等に扱っている」と言わざるを得ませんが、逆に沙耶なんかはそんなこと言う奴が一番信用できません。

だって、そんなこと、”誰にもできるわけのない”ことなんです。それこそ、自律型コンピューターでもない限りね。
同様にマスコミがイデオロギーに汚染されるのも、回避のしようがないことです。
それが、ヒトによって作られていく以上は、ね。

けれど、教育に思想は踏み込むべきではない、という大前提が置かれており、それに従うならば極力その思想の立ち入りを抑え込む努力をするのが教育者である、と見られるのは世間一般の目。
労組活動がだめだと言ってるわけじゃない。

が、その結果が思想の教育へのより大きな比重を持ってした介入となるのであれば、それは一般の目から見て、非常識である、とされているだけのこと。

あ、ちなみに一般人という大きな集合体も2ch同様トップダウンではないカオス集合体。

日本人に一人殺人者がいたとして、日本は怖い国ですね。とは言わないでしょう?
どうして2chに一人殺人者がいたら、2chは怖いとこですね、となるのかな。かな。

この理由もちゃんとあるけど、考えてみるといいかもねっw

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