検証記事を出し、鎮火を図ったかに見えた毎日新聞。
もちろん、その裏では鬼女連合の執拗な追跡は続いていました。
て言うか鬼女のしてきたことを思えば手を出してはいけないタブーに等しい領域だったのかもしれない。
もっともそれを背景に鬼女の世界が無法地帯となってはならないのだけどね。
毎日新聞!社内調査の末の検証記事も全てウソだった事が発覚
CNet Japanで佐々木氏が二回にわたって「毎日新聞社内で何が起きているのか」を記述。
まずはそこから読んでほしい。
毎日新聞社内で何が起きているのか(上)
毎日新聞社内で何が起きているのか(下)
佐々木氏の分析は基本的に団塊vs若年層という構図をベースとした「いまどきの若いもんは!」闘争がメディアを変えて行われている、という結論に根ざしている。
それはそれで決して間違ってはいない。
この構図に至ってしまうのも、大衆メディアが基本的に壮年から老年層に偏りやすく(方針決定を行う上層がその年代にシフトするため)、若年層をターゲットとした大衆メディアは基本的に娯楽と享楽にシフトしやすい(その方が売れる)ことにある。
どーも表層をなぞってる感がぬぐえないのだが。
これは別に今になってはじまったことではなくて、昔からそうだ。
だが、これが大きく変わり始めている。
ひとつには、日本的な長期雇用制度の崩壊の兆しがあること。これにより、経営層が変わり始めている。
いわゆる青年実業家だのと呼ばれる若年層の経営陣が増え、勝ち組だの負け組だのと(これをあおってるのがマスコミだというのも笑い話にしかならんが)いわれ、頭角を現したこと。わざわざライブドアやひろゆきを出すまでもないだろう。
こういった若手経営陣が頭角を現しやすいのがネットを中心としたビジネス、いわゆるITということになる。
巨額な設備投資を必要とせず、アイデア一本で勝負できる地場は、独占的市場を有する既存の業界に比べ、消費者の動きが機敏であり、ニーズが明確であり、なおかつそのパイは巨大でしかも未だ拡大を続けてやまない。
これは結果として、より若年層の意見が表に現れやすくなる下地となった。
彼らが自分たちを守りたかったのなら、経済界のより流動的な労働力の移動や、派遣、そして日本的終身雇用制度の崩壊は是が非でも食い止めなければならなかった事象だったのに、彼らはそうはしなかった。
経済界と歩調を合わせ、より安価で手軽で使い捨てられる労働力を求め、コスト削減に走った。それが、何を喚起するかは気にしていなかった。もっとも、予見しえたかどうかは不透明だとは思うが。
ただし、その動きがなかったとしてもネットはネットで頭角を現しただろう。それは、遅かれ早かれやってきた。ただ、その時にそれらが力をつけるまでの期間が長いか短いかの差は生まれたはずだ。
その期間を各社が有効に活用できるかどうかはそれぞれの現実の会社の経営陣の責任でもある。
次にネットというインフラの特性。
そして、このネットという膨大なインフラは、ありとあらゆるものを吸い上げた。本来はスポイルされてきた「若年層の意見」やいわゆるサイレント魔女リティの言葉。それが、すべて吸い上げられた。
すなわち、それらは情報としての性質のみにスリムアップされたといっていいかもしれない。
旧来であればそういった若年層の意見といったものは本来壮年以降の経営陣から「ケツの青い考え」として一笑に付されたものが、老年層だの経営層だのの「天上人からのお言葉」と「ケツの青い考え」からでた言葉が、そのバックボーンとしての「身分の違い」だの「肩書きに裏打ちされた重み」などから解放され、情報そのもののみの価値として現れた、というのが正しい。
情報のみに絞りこまれたものは、当然その双方の対立が生じたとき、その正誤、あるいはいずれがより適切か、ということはその情報を裏付けるより信頼性の高い情報、いわゆる”ソース”によって裏打ちされ、それぞれの検討比較が行われる。
つまり、情報はその情報の正確性、主張の正当性においてのみ評価される。情報がイデオロギーを含むことはネットリテラシーとしては”常識”の範疇にあり、その情報がどれほどの正当性を有するのか、は裏付けを持ってして確定していく。これが、ソースの確認と呼ばれる行為に当たる。
情報ソースへのアクセスを、「取材の秘匿性」によって隠ぺいし、確認能力を読者から奪うことで情報そのものにイデオロギーが存在しないかのように見せかけることができた現行メディアと異なる点はそこにある。
ただし、このネット情報のソースはたぶんに現行メディアに依存する。皮肉な話ではあるが。
そのため、複数の異なるイデオロギーのメディアを組み合わせてソースにし、それらの比較を行うことで情報からイデオロギーによる付帯部分の削り落しが行われる。
これは、現行のメディアのジャーナリズムがイデオロギーで脚色されていることを前提とした情報確認手段に過ぎない。が、これは旧来も一部の知識層によって行われていたことだ。
つまり複数の新聞を購読し比較検討し読み比べる、といったものだ。
ネットのしたことは、「これを誰にでも手軽に、追加費用も少なく」行えるようにしたことにある。
たとえメディアがニュースサイトを作ってネットに情報を流さなくても、これは行える。だから、メディアがネットにシフトしたからこれが起きた、と考えるべきではない。
情報は情報のみの価値しかもたなくなった。
これがITの真価であるといっていい。そして、ITが冷酷なまでに非情であるのもこの点だ。
つまり、これがどういうことかというと、「肩書きに裏付けられた」言葉の重みの喪失、ということだ。
天才とは99%の努力と1%のひらめきだ。 by アインシュタイン
このby アインシュタインがない場合に、どれほどの人間がこの言葉を重く受け止めるか?という問題に過ぎない。
意味がアインシュタインの意図とは違うとかいう話は置いとけよ?w
つまりえらい弁護士の先生が言うから、とか、学校の先生が言ったから、とか、政治家の~~さんが言うには、とか、うちの社主の~~がおっしゃられるには、という枕詞が消えた上で、その言葉の真価が問われた、それがネットだということだ。
これは、当然団塊世代に受け入れられるべきものではない。
当たり前だ。彼らがそれだけの発言力を得るのにどれほどの苦労をしたか。
若いうちは上に叩かれ、ケツが青いとなじられ、それでも耐えて、よじ登って、ようやく手にした発言力とその肩書き。それが、たかが新しいメディアの登場ごときで崩壊してたまるものか。
そりゃそうだろう。ハラ立てるのも道理だと思う。団塊の上層世代がネット君臨だのなんだのとネット否定に走るのは”至極当たり前”のことだ。
既得権益と構図は似てるが、別に団塊の発言力の大きさそのものは犯罪でもない。
だが、情報のみにスリムアップされると、とたんにその発言そのものの力が大きく削減される。
発言は正誤と正当性によって評価され、そこに含まれていた発言者の思想は削り落される。
それが、彼らは我慢がならないのだ。
思想が削り落される言葉、とは何か。
ある意味では極限まで無駄のない言葉。でもある。トンネルを抜けるとそこは雪国だった。なんて冗長もいいとこである。
天候降雪、積雪20cm。
これでいいじゃないかって話である。ソースは気象庁wみたいな。
そこには思想も情緒もイデオロギーもない。原則としてそこには事実のみが存在し、それを個々人が思索する。
それは、文学でもなければ論説でもなければ主張でもない。
それは、ただ、純粋に、そしてひたむきで冷酷なまでのジャーナリズムである。
報道、とは現時点で二つの側面を持つ。
ひとつは当然ジャーナリズムと呼ばれる、事実の平等報道性。
そしてもうひとつは”人が日常的に体験しえないものの疑似追体験を再現する”という情緒とイデオロギーにまみれた”ある種の芸術”。
ネットは、前者に対して恐ろしいまでに忠実なだけであり、後者についての重要性を関知しない。
後者においてたぶんにイデオロギーが含まれることを、ネットは特に問題視していない。POSO動画やヒロシマの原爆記録フィルム、それらのジャーナリズム性を否定する人間は存在しない。
ネットのしでかしたことは、ただ単に、新聞なりのマスメディアが、娯楽性の加味やその企業、記者のイデオロギーの発露として事実公表であるべき記事をイデオロギーにまみれた思想発表の場にしていること、そして、それが”当り前に”なってしまっていることを明らかにしただけだ。
つまり、「ネットの匿名性」を問題の主要点にすり替えている論理はそもそも問題の本質が見抜けていない。
匿名であることと情報の正確性は必ずしも離反しない。
アインシュタイン以外の誰かが言った言葉であったなら評価できない、というのであればそれは”アインシュタイン”という肩書がなければ名言足りえない明言だ、ということだ。
それを持ってしてアインシュタインはダメだ、なんて言いたいわけでもなければその言葉の真価が減じたと言っているのではない。
匿名においての情報の正確性は、情報の正確性正当性をもって示すしかない。
それは、有名なだれかさんのいう言葉だから~という裏付けがない分、信頼性がおかれる部分も存在する。
匿名性での偽報を問題視するが、肩書きの裏付けが盲目的に事実誤認につながるケースもある。
そして匿名性の偽報は回収が実にたやすいのだ。
「嘘ですよ」というソースひとつで証明が終わる。だが、肩書きの裏付けに基づいた事実誤認の回収は恐ろしく困難なのだ。
ゲーム脳ひとつ見てみればわかるだろう。水のクラスターだの美しい水の結晶だの植物との会話だの…。あげればきりがないほど蔓延する似非科学にトンデモ理論。
ひとつでも回収できたか。できたのはあるある大辞典の納豆くらいだ。
あれだけ騒がないと回収できないのだ、肩書き付けた重みのある情報は。
団塊vsネット世代でも構わない。そういう俯瞰的な見方も間違ってはいないし、結局最終的にはそうなってしまう。
だが、そうなる経緯において、”なぜ”そうなってしまったのかの要因がたぶんにメディア側に存在することには気づかなければならない。
匿名だから悪いだのよいだのなんてのは、完全に事象の表層しか見ていないことのあかしだ。
まして、小泉劇場をネット発のムーブメントというには無理がありすぎる。ネットにそんな力はない。
むしろ無力と無職と屑と、天才が集まってるのがネット。
そこには何もない。あるのは事象だけだ。そこに何かを見出しているのだとすれば、それは本当に見えない敵との戦いだ。
毎日新聞が向き合わなきゃいけないのは”ネット”じゃない。
目の前の現実と、1億2000万人という日本国民、という名の顧客に対して向き合わなければならない。
ネットの声はネットであって社会ではない、なんて理屈はないんだ。
彼らが、”ネット”なんて言ってるうちは気づけないだろうけどね。
ネットは嘘の回収はたやすい。だが、いったん流れ出た”事実”の回収はひどく困難なのだ。というか事実を回収しなければならないとはネットは考えない。
できることなんて謝る以外にないはずなんだ。ネットによって傷つけられた、なんて話じゃない。
ネットの功罪は本来匿名性がどーのということではなくて、この、限りなく事実を提示すること、このことにある。これは利点であると同時に危険な刃でもある。
だがそれは、虚偽ではないのだ。
この言葉が最も似合う。
”おまえはいったい誰と闘ってるんだ。”
ネット? ただ君らのいうサイレント魔女リティの声が集まりやすくなってでかくなっただけの場所だ。
情報が洗練され、事実検証が行われる場所だ。
現実はネットに動かされやしない。
動かすのは、”人”だ。
スポンサーを動かしたのは電話をした一人一人だ。
こんな簡単なことも分からないで、民主主義が理解できるのか?
政治を動かすのは、ひとりひとりだ。誰かの肩書が動かすんじゃない。少なくとも、それが建前だ。
匿名性云々をいう奴らに聞きたい。
投票の時に名前書いて”僕は~~に投票します”っていうのか?
自分の考えを政治に投影したい、その背景にある思想を現実に投射するのに、名前がなければ投影されるべきではないのか?
そして、その名前によってその投影の規模が変わるべきだ、とお考えなのか?
匿名性を云々とするなら、少なくともその点も同時に問題視しなければダブルスタンダードだと言われて仕方ない話だとわからないのか?