お前ら韓国大好きだな。沙耶です。
よーしもっと好きになれー。
今日は世宗の話でも。
世宗。セジュン。元が滅ぼされると、高麗もまた倒れ、李氏朝鮮の時代に入ります。
その李氏朝鮮の王の中でも、もっともすぐれた王、との評価の高いのがこの人。
韓国の教科書でも多分に多く取り上げることも多いのではないかと思いますが、沙耶も比較的評価してる人物です。日本語訳の部分がWebにみっからないので、韓国でどのように教えているのかは読んだことはないですが。
応永の外冦の際の王ではありますが、当時まだ即位直後で権力なかったですしね。
有名なのはハングルの開発者であること。
非常に学を好んだ人物だったようで、元との関係もうまくこなしていた風ではあります。典型的な儒教思想の王道政治を行った人物だといわれています。
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さて。確かにこれらも事実ではあり、比較的温厚で戦事を好まなかった、という側面もあったようではありますが、そもそもあの時代あの地理的位置で戦事を完全に避けることはできません。
女真族との問題がそれです。女真族が何か分からない。ああ、そうですね。
満州人です。って言えばおk? 当時も中国北東部、つーか満州には女真族が多く住んでいました。高句麗による版図の拡大に巻き込まれたりもしましたが。
女真族はそもそもツングース系民族ですので、モンゴロイド系とはまるで異なっており、三国志なんかで北方の蛮族、などと表現されるのはこの女真やチンギスハンの生まれたモンゴルなどの民族ですね。
南方系はまた別です。
ですから、中国の築いた万里の長城はこれら”外敵”から身を守るためのものであり、歴史的に見て満州やモンゴルをいわゆる漢民族の支配地域であったなどと妄言を頭から信じるのもどうかとは思います。
さて。元が倒れたことにより、中華は毎度のごとく大分裂を引き起こします。いつものことなのでまるで面白くもありません。元を打倒してたった国が明。元も北元としてモンゴルに残りましたけどね。
女真もまた、元に従属していましたが分裂、その多くは明に隷属します。
しかし、一部居留地の女真は朝鮮の攻撃を受け、その支配をうけます。
女真族との関係の中で、世宗はかなり強硬な態度で接し、強力に民族浄化を行ったりもしています。
また、ハングルの制定時にはすでに両班制度を完成させていました。もともと高麗時代からのモノですが、民の不満を差別階級によって解消する手段自体はどこでも取られた手法ですから仕方ない面はあると思います。
イザベラ・バードの残した記述の中で、両班は朝鮮のもっとも悪しき災いとまで言われていますが。
両班のシステムについてはまた別に語った方がいいかも知れません。
非常に独特な形態を有した差別化システムであり、それは単純ではありません。そして、その理解には儒教思想の理解が必要です。
ハッキリ言ってしまえば、日本の士農工商やインドのカースト、南アフリカのアパルトヘイト程度の身分を分けた話だと思ってたら頭ぶん殴られます。こいつはそんな生ヌルいもんではありません。
単純な差別ではなく、差別そのものを社会の基幹システムとして組み込み、そして運用した事例など、両班システムを除けば見たことがありません。単なる身分制度、ではないのです。
※そしてついでに出自が両班だってちっとも威張れる話ではないのですが。
沙耶的には朝鮮人の気質的な面というのもここまでの段階でもそれなりに見てとれますから、民俗的性質に基づいた問題、というのはあるのだろうとは思ってはいますが、それを超絶な速度で加速し、理解不能とまで言えるほどに問題の根っこを捻じ曲げたのはこの両班システムであったと思っています。
韓国儒教と両班はまたこんど語るかもしれません。
さて、と。
そして、アレがやってきます。
そう、豊臣秀吉による、朝鮮出兵です。
日本側の視点は皆さん当然御存知でしょうから、韓国側の記述を見ていきましょう。
せっかくだから前回の倭寇に関する記述も含めて。
3 朝鮮初期の対外関係
日本及び東南アジアとの関係
朝鮮王朝は明と女真ばかりでなく、日本と東南アジア地域とも人的、物的交流を活発に行なった。高麗末期以来、倭冠の侵略がやまなかったので、朝鮮はこれを追い払うために水軍を強化し、性能のすぐれた兵船を大量に建造し、火薬武器を改良して国防を固めた。こうして世宗時代には200余隻の艦隊を動員して、倭冠の巣窟である対馬島の討伐もした。朝鮮の国力と国防力が急速にに強化され、一方では日本内の政治的混乱が収拾されて、倭寇の侵略は目立たって少なくなった。
倭寇を操った日本の封建領主たちは掠奪が難しくなると、交易を懇請してきた。朝鮮はこれを契機にいわゆる交隣政策を用いて癸亥約条を結び、制限付きの朝貢貿易を許した。こうして日本の歳遣船が往来して交易が行われた。
交易は富山浦(釜山)、濟浦(昌原郡)、塩浦(蔚山)の三浦で行なわれたが、彼らは主に米、木綿、麻、書籍、工芸品などをもって行き、その代わり銅、硫黄、香料、薬剤などをもって来た。
また、朝鮮初期には琉球、サイゴン、ジャワ等の東南アジア諸国からも使臣と土地の産物を送って来て、朝鮮の文物を輸入して行った。とくに、琉球との文物交流が比較的頻繁に行なわれた。朝鮮初期の交易によって、朝鮮の先進的な文物は、日本及び東南アジア諸国に多くの影響を与えた。
読むだけでハラたってきますがwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
基本的に朝鮮が兄で、日本や東南アジアがその弟、というスタンスは揺るいでいません。
中華が一番の兄、二番が自分>>>>>(越えられない壁)>>>>その他
というのが基本思考です、しっかり頭に叩き込んでこういう文章を読んでもそーだそーだそのとおりニダって言えるようになりましょう。
まあ中華の記録もだいたいこんな感じですけどね。
あそこは中華思想だし。朝鮮が小中華思想、と呼ばれている一端はこの段だけでもよく読み取れると思います。
ペリーの来訪をアメリカが交易を請い願ってきたため、朝廷は浦和や横浜での交易の一部を赦した。なんて文章を日本の教科書で見たことありますか? 形式的には朝廷の臣下であった幕府が交易契約を締結しているに過ぎないんですから、別に記述的には朝廷が赦した、でもいいんですよ? まあ朝廷は鎖国派で許してなかったですけどwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
これもこの記述では当時の朝廷が既に幕府との力関係において完全に逆転していたとか、そう言うことは読み取れなくなりますよね。そもそも朝廷なんて平安末期の時からおざなr…うわなにをするやめろ!
4 倭乱と胡乱
壬辰倭乱の勃発
(前段略)
このころ日本では豊臣秀吉によって長期間にわたった戦国時代の混乱が収拾されていた。豊臣は国内政権の安定のために、不平勢力の関心を外に集めると同時に自らの征服欲を満足させるために朝鮮と明に対する侵略を準備した。
1592年4月、倭軍が侵略を開始した。倭軍が侵略してきて、釜山鎮と東萊城では鄭撥と宋象賢が奮戦したが、ついに陥落されてしまった。倭軍は.三つに分かれて漢陽をめざして北上した。これに対して忠州で申石立が背水の陣を布いて戦ったが、武器と戦略の不備で敗れた。
朝鮮朝廷は倭軍を避けて義州へ避難し、倭軍は漢陽を占領して北上をつづけ、平壌と威鏡道地方まで侵入した。
水軍の勝利
陸地では情勢は不利だったが、慶尚道、全羅道の海岸警備を担当した水軍は、倭軍の兵站支援を受け持った日本水軍の侵略を阻止した。
倭軍の侵入の1年前に、全羅左水使に赴任した李舜臣は、倭軍の侵入に備えて板屋船と亀甲船をつくり、戦艦と武器を整備し、水軍を訓練し、軍糧米を貯蔵した。
彼は倭軍が釜山に上陸すると、80余隻の船をひきいて玉浦で最初の勝利をおさめた。つづいて、泗川、唐浦、唐項浦等でも大勝した。ついに閑山島の大勝で南海の制海権を掌握し、穀倉地帯の全羅道地方を守り、倭軍の水陸併進作戦を挫折させた。
義兵の抗争
倭乱が生じると、全国各地で義兵が立って倭軍とたたかった。義兵は郷土の地理に精通し、郷土の条件にあった戦術と武器で倭軍に大きな打撃を与えた。
郭再祐、趙憲、高敬命、鄭文孚らがひきいる大小の義兵部隊の活躍は大きな成果をおさめた。義兵の輝かしい戦果は、海戦での李舜臣の勝利とともに戦況を変えた。
戦乱が長期化して倭軍に対する反撃作戦は一層強化されはじめた。すなわち、今まで散発的に立った義兵部隊を整備して官軍に編入することによって、官軍の戦闘能力を大幅に強化、作戦がより組織性を帯びるようになった。
えーっとね、言いたいことはわかるけど言わないようにねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
まず、これが”乱”として記述されていること。そこはしっかり覚えてください。元寇はなんといいますか?
文永の役・弘安の役、ですね。これを乱、とは言いません。
乱っつーのは内乱に使うんですよ、黄巾の乱とか紅巾の乱とかって風に。これは中華ですけど。
対外戦争が役、内乱が乱。
はい。覚えた? じゃあ上見て。なんて書いてあるか。翻訳ミスでなければ、このとき日本は朝鮮の支配下にあった、と言うことです。
素晴らしいですね。ですから豊臣秀吉もまた朝鮮朝廷の臣民のはずでして。きっと日本の朝廷が人知れず朝鮮朝廷の臣下だったのでしょう、というのがうかがえます。
反吐が出そう。倭軍、っつーのもアレですね。倭寇と合わせてまあなんていうかアレですよ。支配地域下の無芸大食脳筋バカ民族のヤマトが身の程もわきまえずに支配者たる朝鮮に牙をむいた愚かしきかなこの蛮族どもが。くらいの意味だと思ってかまいません。
連呼されてますけどねw
これなら別にバカチョンカメラって呼んでも何が悪いんだよとか思わないでもないんですがw
まあ、とりあえずこのあほの倭軍は兵站も考えずに突っ込んできたのでウリたちは巧妙なる撤退戦をして倭軍を内地奥深くへ引き込み、兵站ラインを引き延ばし、そののち後方より水軍を持ってして兵站を絶つことで倭軍を孤立させ、のち各個撃破に当たったことでウリの大勝利であった。
くらいに読めないと立派な韓国人になれないので頑張ってください。ていうかまあそう言う風にしか読めませんけどねこれ。
僕はあきらめました。既存の知識が邪魔をし過ぎますからw
実際の出兵がどーであったかとかはもうほんとどうでもいいんでっていうかみんな知ってるんで黙っとけよコラw
特になんか言いたげなそこのいっしゅきwwwwww
最後のは興味深いですね。
ぶっ飛んだ考えを”韓国人”の主張としている所なんか。
筆者の真意を聞いてみたいです。
最近、北海道で墓を暴いて「強制連行された人たちだ!死んでまでこんな扱い(火葬してお墓に埋葬)をされてる!」と騒いでる馬鹿がいますね(´・ω・`)