ふむ。

ちろっと説明した方がいいのか。沙耶です。
言っときますが沙耶は見えんし別にみようとも思いません。
古来から”みる”とされる方法自体は数多ありますが、沙耶自身はものっそいリアリストですwwww

オカルトは好きですけど、メカニズムの考証が面白いだけで”現実”との折り合いをどう付けていくか、という点についてはしりません。
むしろ”現実”の中では脳内での出来事に集約していきますしね。

だからと言って観測できていないのだから存在しない、ともいいません。
観測できる技術がないだけなのかも知れないのですから。あるともないとも言えないもの、という捉え方ですねー。


さて。長いけど書いてることは実はすごく単純。沙耶的宗教観。
こういう思考の人間相手に宗教論争吹っかけるだけ時間の無駄的観点wwwwwものみの塔は覚えとけwwwwwwwwwwwwwwwww

神の在り様、か。キリスト教圏や仏教などではまた変わってきます。これらはむしろ教義的信仰を構成するため、より人間の社会に近いメカニズムを構築したものであって、自然崇拝の延長線上にある神道的概念とはまた異なります。

ここではとりあえず日本人らしく神道的メカニズムについて。アニミズムはいずれ同様の体を為しますが。

基本的には”火は元々危ないもんだけど人にとって都合の良い使い方で役に立ってるだけだもんね。火の扱いを間違えるのは人やもんね。火は別に燃えてるだけやもん”でそれほど間違ってはいないです。
神、というかたちで人間がそれに人格性を持たせているがために、火に”意志があるかのように”感じる点で多少の差異はありますが、それ自体に大きな意味はありませんから。

霊だの神だのっつってますがね。霊も神の現れ方の一つでしかないです。
極端に言ってしまえばアニミズムにとって人も虫も木も空気も石ころもすべて神の現れ方の一つの形態でしかありません。
別に物質的な現れ方をする神じゃない神が何らかの形の現れ方を取っていたとしても何ら不思議じゃありません。

ヒトとヒトならある程度意思疎通と話合いで交渉もできます。でも、それでも喧嘩や殺しもあります。でもそれも言いかえれば神の現れ方と神の現れ方の交渉に過ぎないわけですね。
それが人と虫、ひとと自然、とかになったとして、本質部分が何か変わっているか、というとアニミズムにとっては一切かわりません。

ただ、ヒト、という現れ方をする神と、自然現象のようなものの現れ方をする神ではもちろん力の大きさが違うのでしょう。
また、そういった現れ方の差異によって交渉や話し合いに当たる行為がヒト同士とは方法が異なっている、というだけです。

話し合ったからと言って喧嘩や殺しにくる神だっているでしょうし、友好を示す神もいるでしょう。
そんなもん、ヒト同士の話とどこが違いますか、って言ったら違いません。言うこと聞いてくれる人もいるし、聞いてくれない人もいます。

アニミズムにおける神の立ち位置、というのはその程度のものです。ですから、霊だのなんだのとかも最終的には神に帰結させますし、あらゆるものをそこへ帰属させてしまいます。
神道自体はアニミズム単体で完結しているというよりは、そこからさらに祖霊や自然信仰なんかも撮りこんでいるので単純なアニミズムとは言い難いですが。

そういった現れ方が異なる神同士で意思疎通が成立するケースは非常に少ないと考えられます。
ですから、そういったケースは非常に稀として異端と扱われたり、あるいは信仰の対象となったりします。巫における神託も結局そう言うことでしかありません。単なる会話。

さてさて。では見えてしまう人にとってはそれをどうとらえるべきでしょうかね。

語りかけてくるなら、それを聞くも聞かないも自由です。希少な対話ケースとは言え、別にそれに流される必要もないわけですし。だってお互い神ですから。向こうの言うことに一理あるなら聞けばいいですし。まるっきり無茶苦茶なら言い負かしてもかまいませんね。

だってお互い神ですから?w

もちろん神間における上下、俗に格だとかって言いますけど、そういうのもあるかもしれませんが人間同士でも同じことですよね。
自分より立場や年齢が上の人に真っ正面から言い負かしたりすればカドがたったりするわけですよ。
その時に言い負かされた人が腹立てないような人ならいいですけど、逆恨みする人だっていっぱいいますよね。

だからあとは単なる人付き合いと同じに考えてしまえばいい。

寄っていきすぎ、というより別にそこらじゅうにいるのに逆にいえば”なんでそれだけ見えてるの?”って話なわけですよ。むしろ全部見えてんだったらえらいことになるわけです。
見えてる時点でそこらじゅうにいるはずの有象無象よりもなにかしら大きい、と考えるのが普通ですね。
でもだからって神同士には違いないわけです。

さて。

じゃあまあどうにもならんじゃんwwwwwって話なわけですけどね?

山奥で変な色とか山頂とかでぺかーっと光ってるのとか淵とか寺の隅っこの淀みとかそんなんのがずーっとでっかくてヤバイと思ってたけど。
トイレの神さんもヤバイの?^^;



うーんとですねー。厠の神様にしろなんにしろどこにでもいるわけです、神様ってのは。それこそ僕もあなたも神様ですしね?
んで、まあ厠、ってもんを作って、厠の役割を与えたわけじゃないですか。人が。

神様が神様作ってるだけでただの神産みの話でしかないわけです。この場合、たいてい産みの親の方が偉いっすよねwwwwwwwww
んで、ひとは自分の作った神に厠であれ、と名をつけて命じたわけですし、格上にいちいち突っかかってくる奴なんてそんなおらへんですよね?
いたとしてもこっちが圧倒的に上ですよね。造物主ですし?

ただ、厠の作り手が厠が人殺しをするように念じてそう意図して作ったならそれが人を傷つけてもなんらおかしくないですよね? 便器に爆弾入りの便器作るとか。
この場合厠の神にはそういう人を傷つける役割を命じ、与えた神が別にいる、というだけの話。

そういう厠にぶち当たればヤバい、とも言えるかもしれませんがどこのアホが厠でヒトゴロシをたくらむのか、という至極現実的な話が待ち構えているわけです。
だったら車に爆弾の神積んだ方が早くね????wwwwww
銃の神だとか手に入れて言うこときかせた方が楽じゃね?wwwwwwww
という当たり前の理屈が存在するわけで、それを常識、と呼びますね。その範疇で思考しない連中のやることなんて予測できませんし、そいつらが爆発機能付き便器を作ったとしてもそれはもうどーしよーもない話ですよね。
ですから厠の神は絶対安全、なんていいませんし、じゃあ危険なの?って聞かれても困ります。
危険かもしれませんが、ものすごく可能性は低いよね?って話w

さてさて。ここで大事なのは日本ではこの名前をつける、命じる、ってのが非常に重要視されている点です。とはいえ、アニミズムでは全般に重要視されていることなのですが。
名前をつける、あるいは相手の本名を言い当てる、それは相手を支配しようとするする行為そのものだとされています。

まあぶっちゃけ所持品にするってことですよねこれw

どんな持ち物であれ、名前をつけることによって神としての格を上げるってのはよくある話で、刀類に名前をつけて守り刀として用いるのは典型的な霊的守護の方法として有名です。
こういった手順や方法論を”信じる”ことが神道における信仰の形なんです。

日本の生活様式の中で、畳の縁を踏まない、だとか、土間で靴を脱ぐだとか、お辞儀の形だとか礼儀だとか、祭りとか、婚姻儀礼とか、全部”そういう方法や手順の形式化”であって、それらを信じて実行する行為そのものが信仰に当たる、というのが生活に根ざした信仰である、と沙耶が考える所以です。

それこそ、朝であった人に「おはよう!」って声をかけること、それもまた信仰の形式に則ったものであると言ってかまわないと思います。ヒトも神なら神と神の対話がどうして信仰から外れようか。

では山だのにいる神様っぽいのはー?って話。

俗に山神とか言いますが、普通にですね、山とか自然レベルのでっかい存在はそれだけで危険なわけですよwwwww
山、っつーても山の存在そのもの、そこに生えてる木、生きてる動物、石ころや岩。そのすべてに神がいるわけで、それらは山があってこそそこに在れるわけです。
つまり、言いかえれば山、という神に従ってるわけ。山神のもの。

だから昔から人は山のものをいただくときには山にお願いしておこぼれをいただくわけです。
似たようなことの里での行為が地鎮祭ですね。

ですから山神が見えたとしてそれがヤバいかどうかなんてのはわかりません。山にとって人という神が受け入れならざるものと判断されていれば危険でしょうし、逆に共存共栄を考える山神なら危険ではないでしょう。とはいえ、ヒトの近代以降の拡大の歴史の中で、山が人に好意を抱いている、と考えるのは幻想でしょうから山の多くは危険なんじゃないですかねー。

淵もそうですよね。淵、という存在そのものに対する神に加え、そこに住む魚や流れ行く水、そのすべてが神々の在り様であって、その上位には川の神様がいるわけですわ。
川が人にとって好意的かどうか、なんてのはわかりませんが、ヒト、というちっこい神が力を合わせて川という大自然を抑制し、制御する(護岸工事とかね)過程を考えたら、川は人に好意を抱いているのか?って答えはどうなんでしょうかね。
川全体としてはやむを得ず、と思っていたとしても河の神の中にはタカ派もいるんじゃないですか? ひとを引きずりこんで仕返ししてやろうと思ってる神様とか。

ここでは”思ってる”なんて書いてますが、実際には川の流れの急なとこ、とか渦を巻いていて引き込まれる川のポイント、そういう意味合いで捉えてくれてかまいません。”そう言う場所”もまた神の在り様の一つ、ですから。

ここまで、神様神様ゆーてますけど、結局のとこそれは自然の在り様でしかないわけです。
それに人格性を持たせたりして、神、という理由づけを持って自然の力の在り様をよりわかりやすくしようとした方便に近しいもの、それが神道の在り様です。

だって山があぶないのも川で溺れるのも海が荒れるのも。

全部当たり前のこと。自然の在り様。それのどこに異常性が見られるか、というとそれはないよね。

だから、せめて自分がいるときは暴れないでほしいな、とお願いするのが対話。ヤバそうだろうがなんだろうが近づく必要がある時は近づかないといけないし、それなら対話をしておけばもしかしたら「ああ、あいつお願いしてたからまあいいか」ってなるかも知れないよねーってかすかな期待が信仰。
近づかないほうがいいなら近づかないよね。

あそこ溺れる、ってわかってて近づくのはただの馬鹿の人神だよね。それで川の神が怒って引きずりこんだとして、川の神が悪いのか? 川の神は危険で怖いものなのか? 違うよね。「人という神様が、川の神の一部の兇暴な神様が住んでるとこ行ってちょっかい掛けたから殺された」わけですよねぇ?wwwww

このどこに必要以上に畏れる要素が? 危険な場所は畏れなければならないにしても、必要以上に畏れる理由はないわけです。

”妖怪”なんかのカテゴリもこういう分類の中で、ひとによって”あれは悪いもの”って決められた(名前をつけられた)ことによってその行く先を命じられた”モノ”。
悪いもの、と決められたのだから悪さするにきまってる”モノ”。だってそうしなさい、って言われたんですものね。そうしなきゃいけない。

疫病に七人ミサキと名前をつけ、村を渡り歩く悪神と定めた。

現実は疫病が先にあって、ミサキはそれの名前づけにすぎないけれど、信仰はその行為を対象とするために原因を薄れさせ、結果のみを抽出する。
だから、七人ミサキに出会うと死ぬ。因果関係を破壊し、行為を形骸化することで独立した事象であるかのごとくに感じさせることにより、それらは神秘性を有する。

それは信仰を継続することにおいてはとても大切なこと。そして、科学においては許されざること。
だからこの二つは反目する。けれど本質なんてそう大差ないんですよと。
もちろん、はじめから因果関係そのものを持たないモノ、というものもあるのはあるけどね。
だけどそう言うものってそういうものですよね。

運が悪かった。そういう言葉ですむ話でもある。むしろ運そのものが因果関係の原因であるとも言えるしね。

山の神が危なく見えるのは山の神に匹敵するだけの力を人一人だけでは持っていないから。
危険を避ける方法を持たないまま山に入るから。だから山神が恐ろしく見える。もともと山は怖いとこだし。
山神の為すこと、つまり山の危険性そのものを避けられないから、祟りに触れる。もちろん、ひと一人で避けれる祟りなんてタカが知れているけれど。

必要以上に畏れる必要はない。だけど蔑にするものでもない。

それはただそこに在るもの。そう、沙耶は思います。

冬登山の準備もせずに冬の穂高に登れば死ぬ。その時の山神はとても恐ろしく見えるでしょうね。
あらゆる考えつく遭難対策を持って、数十人のパーティを組んで標高100mの近所の山に挑んだときの山神が恐ろしく見えるのだとしたら、それは避けれれざる運のわるい出来事が起こるのだと思えばいいかと。

そんなもん、防ぎようねーっしょ?wwww
見える人は、そこから離れるかもしれない。だけど、見えない人は別にその時の山神を誰も恐れてはいないでしょう。そして何か起きたとしても、それは決して彼らのせいではない。

運が悪かった。きっと、そんな理由の出来事に過ぎない。
タイタニック号のようにね。ま、あれはそのあとの救助においては起こるべくして起きた悲劇ですが。

ヒトの力でなんともならんものを見て、それを何とかしようとするから畏ろしく思える。
ヒトは人。人の大きさの力しかもたない神。なれば人神であるべくあろうと思うのがよろしいかと。
なんともしなけりゃいいんでないの? 危険に宿る神なんてそこらじゅうにいますしね。
言ってしまえば道路に一杯走ってますよ、ものすごく荒々しい神が、四つ輪で。

以上、オカルトな言い回しを多用してますが言ってることはただ「あぶないとこにちかよらない」的小学校の帰りの会レベルのお話でしたとさw

結局その信仰のメカニズムさえわかっていれば、お守りとは何か。護身の法とはなんだったのか、ってのもおぼろげに見えてくるんじゃないでしょうかね。
霊だの神だのってもんへの対策も含めて、ね。

なんでそんなもんが見えるのか、なんて話はシリマセンwwwwwwwwww見える人が見えるっていうなら見えるんでしょう、としか考えていません。
否定する理由も根拠もない。「俺には見えない」は否定の理由にならない。この辺は認知学と哲学分野の本領発揮領域。
よって見える、ことは誰にも否定できない。だが肯定もできない。

だから、見える、ということそのものが、在るように在るのだと沙耶は思うだけ。それもまた、神の在り様の一つ。

沙耶が信仰を思考停止のための手法だなぁとおもってるのはこの辺が完璧に自己言及パラドックスを構成しているからですが、だからといって見える、と言うことを否定することも矛盾ですから、あえて踏み込む理由がないだけだったりします。

なんか考える参考にでもなれば。

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