とおりゃんせー

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせー

信号の盲人案内用音楽としても有名ですね。沙耶です。おはよーござーまーす。


みなさんもよく知るこの民謡。さてさて。
”ななつ”のお祝いにお札を納めに行くわけです。なんで帰りは怖いんでしょうね。

そして、天神様はなぜ御用のないものを通してはくださらないのでしょうか。
寺社仏閣への参拝がそこまで規制されていたのでしょうか。
神社の入口に当時は門番がいて、厳しく参拝客を戒めていたのでしょうか。
考えるとちょっとおかしなこの民謡。江戸時代に成立したこの歌は、本居宣長の子孫である本居長世さんによって編まれ、現代によく知るものとなります。

遊び方はご存じのとおり、London Brigde is Falling Downと全く同じ。ていうかこれの唄を変えただけですよね、あれは。

七つの祝い、と言えば七五三、という風習がまっさきに浮かびますよね。
なんであれ、みっつと七つが女の子で五つが男の子なのでしょうか。

実は七五三そのものはもともと関東地方の風習に過ぎず、全国的なものではありません。
よく言われるのは、男子の方が死亡率が高く、また世継の意味合いもあるので早めに祝う、というものですが、じゃあなんで三つの時にも祝わないのでしょう?

天神様、と言いますが、これも当然湯島天神や太宰府ではなく、関東地方の神社が舞台とされます。

では、一体この七つの祝いとは何だったのでしょうか。

七五三自体は、七つ詣の変形によって生まれたと考えた方が自然かもしれません。

子供は七つまで神様である。

そんな言葉を聞いたことはありませんか?
もちろん、言葉の表面だけをなぞらえば、それは決して悪い言葉ではないですね。子供、という授かりもの。氏子神を通じ、産土神に子を授けていただいたことを感謝し、ご報告にあがるのがお宮参り。
これにより、子は産土から氏子に預けられ、神代の守りの中に置かれます。

出産は神を人の身に宿し、ひとの代に産み落とした神の結実。そして、それを再び今一度神代の守りの中に置く。なぜなら、子供は神だから。人の世にあっては穢れを浴び、荒御霊となるであろうその身を、氏子になることで穢れの払いを。

子供とは古代より、そして現代においてもあの世とこの世を結ぶほころびです。

よく言いませんか? 子供は大人に見えないものを見ている。子供が何もないところをじっと見つめている。子供が突然不思議なことを言う。
子供だけの世界。子供だけに見えているモノ。その説明を人々は神代に求めました。
実際には子供の想像力の賜物だったり、未成熟である脳の反応の違いだったりするのかもしれません。
しかしやはりオカルト的には、彼らの見ているのは、”かぐりよ”であると思った方が不気味でもあり美しくもありましょう。

そんなかぐりよで子供は鬼とあそび、御霊に守られ、そしてやがて七つを迎えるのです。
そのために子がかぐりよやうつろわざるものに惑わされ、かぐりよに連れさらわれないためのまじないがいくつもあります。
ヒトガタを切って身代わりとするもの、腕に編んだ腕輪をするもの、また身代わりとして人形を持たせるもの。
市松人形は必ずしも祝いとして作られたとは限りません。時には、子の身代わりとして災厄や神代かぐりよの呪いやまじないをわが子ではない”似た何か”へ転嫁するための呪術器。
そうして人を守りつづけたそれは、正しく清められれば神となり、長く愛されその守りの力高ければやがて九十九の年をへて、その人形は神となり、その家に憑く。

そう、座敷童子として。

もちろん、逆も。荒御霊となればその身にうけたるは神の呪とかぐりよの力。ましてひとになぞらえたるものは人に似ないものよりもずっとその力は強く、強大。
粗末に扱った人形は、ありませんか?
まだお手元にあり、そしてもう使うこともないのであれば、今からでもよいのでその名を与えてやり、命じてください。役目が終わり、そして今から清められ神とすることを。そして人形の供養を。
これからも使うのであれば、大切に、大切に。いつしかその子は家を守りあなたを守ります。

七つになった彼らは、かぐりよに別れを告げ、うつしよに降りなければなりません。これは国造神話における神の人の世への神下りになぞらえます。

なぜ七つで?

神代七代、という言葉があります。人は母親の胎内で単細胞から分裂し、魚類、両生類、爬虫類、そして哺乳類への進化過程をたどるといわれます。
同じようにですね。子供は神の過程を経て地上に降りるのです。

まず別天神があり、そこから続いて7世代の神を神代七代とよびます。
國之常立神(くにのとこたちのかみ)
豊雲野神(とよくむぬのかみ)
宇比地邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
角杙神(つのぐひのかみ)・活杙神(いくぐひのかみ)
意富斗能地神(おほとのぢのかみ)・大斗乃弁神(おほとのべのかみ)
淤母陀琉神(おもだるのかみ)・阿夜詞志古泥神(あやかしこぢのかみ)
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)

いざなみ、いざなぎへの国造り、神降りは子供の年齢とともに進んでいくのです。
国、とは子供の肉体と精神。初代の國之常立神や豊雲野神が一人で一世代なのに対し、みっつよりその神が二人で一世代となります。
そうですね、性別が分かれ始めているのです。これが明確に男女、に分かれるのが伊邪那岐神・伊邪那美神に至って初めて完全な男女の別れとなります。これを持って、神の人成りとします。

古事記にもありますが、男神、女神として明確に分かれ、そしてアレをしてコレをして神産みをするのも伊邪那岐神・伊邪那美神の二柱に到ってからです。それ以前にはそんなもんありません。
すなわちこれを持って、神から人になり、初めて人の子として扱われます。

いやあ、素敵ですね。で、済めばいいのですが。

逆の話もしておかなければならないでしょう。口減らし、子捨て、神隠し。
7つまでの子は人ではなく、うつしよの”生命”でもありません。それは、かぐりよや神代に住むうつろわざるもの。

だから、殺しても問題はない。山に捨てても、神がそれを拾う。いつの間にかいなくなってしまった、神隠しですね、ああしょうがない、子は神様のものだから。

そういうことです。親の心的負担の軽減のための方便でもあるのです、子は七つまで神、とは。
七つを超えた子は人の子であり、それを殺さば子殺しの親。

つまり七つまでなら殺してもよい。

さてさて、歌に戻りましょう。

帰ってきたのは誰なのか。神から人となった子であろうか。
子は何が恐ろしいのか。怖いのは子なのか、親なのか。それとも神か。
納める札はおそらくは神代からの守りのヒトガタ。子はこれより神の守護なき世を生きる。

納めに伺ったのは天神様、という神社ではなく。

すべての神の大本たる別天神。天津神における最高の神格である五柱。これより神代を下り人の世へ降り、神であることを捨てることを申し上げに参っているのであれば。
そりゃ御用もないもの通してはくださらないでしょう。

守りであるヒトガタには神代の呪が当たっているのです。そんなもの、人の世の神々に払えるものでもなく。高天原の神の呪は高天原の神によってしか払えるものではないでしょう。

別天神のもとへの道など、いくら子が神であっても知るはずもない道。そも、国造りより別天神などの天津神は下がり、表だって出ては来ないのです。
そりゃ道も細いってもんでしょう。

とおりゃんせ、とおりゃんせ。

あなたが守りを忘れていれば、子は神代の力に巻き込まれ、禍津日神や荒御霊の性質でこの世に下ってくるかもしれません。

さてさて。
風習とはかくも不可思議なるものなり。そして、こんな話を”ああ、やっぱり風習って大事だ、なんとなく怖い”そう感じてしまったあなた。
その心こそが、日本における”信仰”です。深く、深く、精神性の奥に根付いた、日本人の、日本人による、日本人のためだけの信仰。

畏れを起点としたアニミズムの頂点的体系化神話。
それこそが、我々の誇るべき信仰であり、現実とはかい離しておきながら、ひとのこころに真実を感じさせる”もうひとつの”世界。

あなたにも、かぐりよは見えますか?

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