こんな質問が。

こんな質問がなにやら放り込まれていた。

会う、というのをどういう意味で言っているのか知らないが、俗物的に生き物としての意識における会う、という概念を記述したとしたら、どうしてナチュラルに死んだあとも意識があるなんて思えるんだろうか。
”会う”って概念は意識下においてしか機能しないものなのだが。

意識とは脳内のニューロンネットワークの生み出す幻影。
死とは脳と肉体の機能停止。そこに意識がある、なんてどうして思えるのだろう。


さて。質問の答えだ。

Yesでもあり、Noでもある。

人間の認知しうる範疇での”会う”だのという感覚は得られない。人の死は有機生命をただの物質へと格下げする現象でしかない。
よって、あなたが死ねばあなたの意識は消える。よって会えない。

では、Yesってのは何かっつーと。

あんたが死ねばあなたも死という現象によって”いまこの世界に生きている他の人から見れば”神の座に座することとなる。よって、あんたも神様になる。
神とは個々の人格を有した”存在”ではない。

それを”存在”たらしめ、”存在”として認知しているのは生きている人間の側であって神の側の話ではない。よって、神に会う、といった思考そのものがそもそも宗教というものを誤解しているに他ならない。
宗教ってのは死者のためにあるものではない。生きている生者において必要とされているだけで、死者がどーのこーのって話ではない。

これは原始宗教だろうがなんだろうが原則変わりはしない。

死後の世界で幸せに、なんてのはただの言葉のアヤにすぎない。
だから、あなたが百万人殺して死のうが、善行を積んで死のうが同じことで、結局土に還るだけ。

ただ、あなたが行った行動は次の世代の”生者”の世界に影響を与える。
よい人々が暮らす良い世界が次もつながっていくように、人々を導くのが宗教の役割。そのための教訓や訓話として、死後の世界や地獄、天国といった俗世的な幸福や不幸を掲示し、どっちがいいですか?って恐怖を与えてコントロールしているにすぎない。

ヒトを殺したかったら好きなだけ殺せばいい。

それが結果として因果の糸の始まりを作り、次のよくない社会を生み出すパワーになる。
あなたがあなただけの幸福を追い求めるなら、そこに何の問題もない。
だが、大多数の人は自己の幸福に他者の幸福が交錯する。

それは、妻であったり、子であったり、親であったり、友人であったり、恋人であったり。

それらを幸せにすることが自己の幸福にも直結する。
そのため、”次のよい社会、次のよい世界”を作ろうとするし、それは自然でもある。
だが、同時にそれは努力を要求する。堕落は努力を要求しない。
そのため、ひとは堕落しやすい。
それを律するのもまた、宗教の戒律となる。

宗教ってのは単に社会構造の一端でしかなく、それは生活そのものでしかない。
神に会うとか会わないとか、いるとかいないとか、しんだらどうなるのとか地獄はあるの?天国はあるの?
こういう質問は全て、宗教というものの本質が見えていない時に発せられるとても俗物的な思考の産物でしかない。本質を見ればそれが如何に無意味な問いかは理解できるはずなのに。

また、穢れを落とす、という意味も間違ってる。神道において死は穢れそのもの。死者が清めの極にある神に会えるわけはない。
死者から穢れを落とし、神の座に座するのは生者である者の仕事であり、それが”葬式”だ。
仏教は死を穢れとはしないがね。これは輪廻転生の考えから来るものだからな。
※なので仏式の葬儀で清めの塩、は本来とてもおかしな行為。神仏習合の際の名残だ。とはいえ、穢れの概念自体も仏教経由と考えられているけど。

葬式は生者のために行われる儀式であり、死者のためのものではない。死者の穢れを払う、というのは生者のための行為であって、死者のためのものではない。

死は穢れであり、死者を生んだ家庭は穢れに満ちる。このため、残された家族の穢れを払わなければならない。
そのために、死者を穢れから清めに変えることで、家族の穢れを払うのだ。
死という最大の穢れを払うには最大の清めである神の座がふさわしい、というだけに過ぎず、それは生者の価値観の中にあるだけのもので、死者にはまるで関係がない。

死者は穢れを払われ、清めを与えられ、神として呪われ、生者は家族が死者から神になったことで”清め”られる。払われた穢れは神主が持ち帰り神に返す。

神の座に呪われることを神に会う、と言う表現をするならYesだろう。だが、それは我々が日常的に~~さんに会う、というのとは全く異なるものだ。
それをそう表現するのは、死者を見送った生者の側の話であって、死者が主体ではない。

魂の座は生命の上に成り立つ意識。
死は魂の離脱ではない。消滅に他ならない。

と、思う。死んだことないから分からないけどwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
死んでみればわかるんじゃない? それを知ったところでどうしようもないし何も変わらないし何も変えられない。それでも知りたいなら死ぬしかないよ、どんな結果になるかは知らないけど、それを生きてるうちに知ろうとするのはおこがましいとは思わないのかな?

そして、それをすることが未来になんのメリットもないし生産性もないし何も生み出さないし誰も満たされないし(あなたの知的好奇心からのことかもしれないけど、好奇心だって死んだらないだろ)、それで何をしたいのかさっぱり分からないし、それを考えてる時間もとっても無駄だと思えてしょうがないけれど、それでもそれがあなたの命やあなたの時間に比べてとっても大事だと思うなら。
それが、あなたにとってとても大事なことなら他人の答えなど期待してどうするの? 誰かの答えを聞けば満足? 臨死体験でもした人の話が聞きたいだけ?
私は、そんな無駄な思考と行為がよい未来を作るものであるとは到底思えないけれど、あなたの価値観の中ではそうではないのなら、あなたの信じる道を行けばいいんじゃないかな。

少なくとも、神様って存在を生み出したのは”生きている人”であって、死者じゃないし。
答えは”生きている人たち”の中にあるはずだけどね。
その答えを”死んでいる人たち”の中に求めようとすることが間違ってるとは思わないのかなあ…。

私の答えはこんなもんです。オカルトは好きだし集合的無意識とかイドの怪物とかいてもいいなぁとは思うけど。

すべて、それは”生きている人”の作りだすもの。
死者は何も作りださない。

0 thoughts on “こんな質問が。

  1. ななかCrushは昔ざんざかやってた、で見に行ったらキャッシュが残ってて記録が3350.83だった

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