神の在所と魂の位置

神。古今東西さまざまな宗教においてその存在性を明示されながら、そのアイデンティティはきわめて不透明かつ非統一的な存在。

そして、魂。
古今東西さまざまな文化風習のなかでその存在性を明確に認識されていながら、その実在性は不確かなものの、そのアイデンティティは非常に似通っており、同一のものを指すと認められるべきもの。

沙耶です。


この二つは、その存在性の根源において、まったく異なるものであるといえる。

魂は神ではないし、神性が魂であるとする根拠もない。
そんなものは数多の文献洗いざらい眺めたって、トンデモ宗教学でもない限り、そうそうお目にはかかれない。

神、というのは単にその宗教にとって神聖性を持たせるための、都合のよい架空の存在。
その神性をもってして人に道を指し示すことを主軸に置く。一神教ではその傾向はより顕著になるし、もちろん、多様性を持つ多神教はその限りではないにしろ、善性を持つ神と悪性を持つ神の対立構図によって社会における人間の振る舞いを諭し示すための道徳書でしかない。
言ってしまえば、宗教などただの倫理学でしかないし、その倫理学の持つスタンスによって善悪の基準も変わってしまうに過ぎない。

魂とはこれと切り離して考えるべき、人間の死後に対する意識のあり方として提唱された人の意識の存在性と座位に過ぎない。
人の意識が五感とそれに連動した末梢神経、そして脳による化学反応と物質伝達、その単純な反応の組み合わせによって生み出される複雑系システムであることが明白となった現在でも、その魂の存在性に対する明確な回答は得られていない。

そして、宗教学ではこの魂の実在性の否定が困難であることは看破しており、神の在所として魂の在り様を取り込み、神と魂を結びつけ、神の非実在性をうやむやにしてしまおうとしている現状もある。

が、元来この二つは明確に異なるものだ。

神は神であり、魂は魂に過ぎない。魂が神になるわけではない。神として規定された架空の存在性の性質が、魂に近いだけに過ぎない。それは、人が魂と呼ばれるものを認識し、その存在性を感じてから、その上位存在的存在性として神を規定したのだから、それぞれが似るのは当たり前といや当たり前。

さてさて。なんでこういうことを言うかというとだね。

【米国】韓国系・中国系団体、慰安婦問題の次は「反靖国神社キャンペーン」を全米で実施へ [06/23]

こんな馬鹿げた話を読んだからだ。
日本の文化において、神の座位と魂の座は極めてあいまいであることは確かだ。多神教であり、数多の神があり、八百万とよばれる神々の階層化ツリーを持つこの国の宗教観は一種独特ですらある。
きわめて土着信仰、自然崇拝に近いところにありながら、それを一種の宗教に昇華し、その昇華された宗教を最終的には文化のレベルに落とし込んだ。このため、先進国でありながら、自然崇拝レベルの多神教が宗教という形を半ば失いつつも、ひとつの文化として確定しているのは非常に奇異でもある。
ギリシャ神話をいまだ信じて、アポロンのお言葉を賜る、という信仰がいまだギリシャで根付いているか、といったら難しいだろう。過去の遺産としてはあるが、そのアポロンのお言葉とやらを間に受けるような文化があるか。

ところが、日本にはこれがある。おみくじだの、巫女だの、奉納の舞だの。果ては、一地域に伝達文化として残っているのではなく、国全体として夏祭りだのとその宗教観に根ざした(それがそうであると認識できないレベルであったとしても)統一共通文化として定着している点は、文化人類学、民俗学の面で非常に面白い。

で、と。靖国だっけ?

ここには位牌など存在しない。他国の文化を批難するなら、まずその文化がなんであるかをまず知れ。
アホですか。土葬は非人道的だからやめろと海外に言うのと同じだ。馬鹿か。

靖国には、”国を護国する意思を持った魂”を”奉る”ことで神と為す。
護国を祈るための巨大なシステムだ。わかりにくければ言い換えよう。

アレ、つまりあの巨大な神社は、”この国を護る意思を持ち、そして死んだ魂に鎖をつけ、あそこに縛りつけて神として敬うことで、護国の任を解くことを許さない”呪い、のシステム。

この国の神はそうやって”造られて”きた。

祈りはすべからく呪いでもあり、呪いは等しく祈りである。

その内実の善悪によって、人はそれを祈りとよび、時にそれを呪いとよぶ。それが、この国の宗教観。すなわち、神に善性のみであることを認めない。ゆえに、荒御霊と和御霊が存在し、その二つは単一の神の中に共存する。

この国の神社の役割は、巨大な”呪い”のシステムであり、その善性の表面が祈り、守り、奉りに現れる。
だが、その呪いの本質はもうひとつの側面も持っている。神社は、すべての祈りを受け止める。
それゆえに、丑の刻参りは神社の裏の神木を用いて行うのだ。己の、醜き祈りである呪い、を神に届け、それをかなえるためがゆえに。

トチ狂って寺の裏でやる阿呆もいるが、ただの馬鹿である。もっとも、かつて神社はすべての仏教をも飲み込んだ宗教でもあるため、一概に言うべきではないのだろうが。
神社が呪いであると理解できれば話は早かろう。アレは巨大な魔術機構でしかないし、その原動力として考えられているのが、人々による信仰。

つまり、どれだけの信仰心を集めるかによって、神社は善にもなれば悪にもなる。

多くの信仰を集め、多くの清廉な祈りをうける神社は活発に活動し、その信仰を集める呪いのシステムはよい未来を引き寄せる呪いとして神とよばれる魂を束縛する。神はよい未来を引き寄せることを要求され、その呪いに縛られる。
逆に、信仰を集めなくなった神社は、たまにくるわずかな呪いや、その土地土地での災い、あるいは草木草木動物たちの不幸や人に虐げられたことによる理不尽な死、そんな思いを集めてしまう。
人の信仰があれば、そのような小さな(つまりはその呪いのシステムに直接的に向けた祈りではない、もっと言ってしまえば生命活動そのものの感情の起伏)など直接的に向けようとして向ける信仰の前では無力に等しかろうが、それが絶えてしまえば呪いの方向性は定まらなくなる。

これが、結果として荒神を生む。山神が里の神に比べ荒々しいのは、山々の動植物の思いも含むからだ。それでも、山を人が信仰するうちはその荒神さえも呪いの呪縛をある程度は受けてしまう。
が、それがない神社。つまり、朽ち果て、訪れるもののいなくなった神社。そこには、かつて”神”とよばれるだけの力を有したナニカが、制約のない状態におかれることになる。

これが、災禍。神のもうひとつの側面である、荒御霊の在り様。
妖怪、化け物、魔物、魔性、災厄、あらゆる負のコトバで現されたそれらは、元来”神”である。
だが、この国の”神”はもともと決して善ではない。それは、ただの、力。純粋な、霊験の力を現して指し示すコトバに過ぎない。
ケガレ、キヨメ、という概念も魂を霊験の純粋な力としてしか見ていないが故のもの。

よって、人の祈りという呪縛システムから開放されたそれは、自在に力を振るうことを許される。
あなたの家の近くにも。ありはしないかね?
廃れ、朽ち果てた稲荷や鳥居。本来は道行く人を、山に入る人を、里を。護るべく置かれた神の座位。
いまや、訪れる人もなく、荒れ果てたまま。そこに伝え聞くは心霊と怪談。

そこの座位にいるのは、和御霊か、荒御霊か。神の座位にありながら、神であることを規定する呪いを受けられなければそれは神をくだり、暴虐なる力の集合となろう。
神を廃すならば、神を下ろし、その任を解き、しかるべき道を持ってその神に行くべき先を与える呪いを行うことでその神を異なる社へと移すことができよう。
だが、”なかったことに”はならないのだ。靖国をおろすなら、靖国の英霊の行き場を与えてやらねばならない。
彼らの魂が、神となったことに変わりはない。というか、この国の魂はすべて神なのだから。
彼らが”魂になった事実”は消えない。彼らが、死んだこと、は消せないのだ。

この国の、神社というシステムはその本質を見失いながらも尚文化という形で存続することで、祈りを集めるという呪いのシステムを存続させている。
靖国は、その中でも”護国”という呪いをなす最大の魔術機関。
そこに魂の座位である位牌があろうはずがない。そこにあるのは、護国の意思を持った魂の力をつなぎとめ、縛りつけ、動きを取れなくし、この国を襲う災厄を振り払う剣と為す魔術システムがあるのみである。
この国において、すべての魂は神の座位を持つ。

ゆえに、仏教のまがい物である位牌などない。魂の座位とし、輪廻転生をうくるものなど、この国の宗教には存在しない。
この国の宗教はすべての死者の御霊を等しく呪い、縛り、そこに役目を与えることによって未来を作る魔術に利用される。そのための方便として、それを”神”とよぶに過ぎない。

この魔術を破壊するというなら、よかろう、やって見給え。護国の力は確かに失わせればこの国を護るものはなくなろう。
だが、護国の逆は決して亡国ではない。あらぶる御霊となった護国の英霊の御霊が、どのような力をどこに振るうかなど予想もできない。靖国は、その御霊に方向性を与えるとともに、その御霊をあの場所に封じる結界でもある。
打ち破るならやってみるがいい。

だが、靖国ひとつの力で、この国をそれよりはるか古くから護る護国の結界に害を為せるとでもいうのか。たかが明治になって生まれたごときの社に? この国の呪詛システムをナメないほうがいい。

すべての神を収容できる出雲。

天照大神を筆頭とした陽の神社の本山たる伊勢。
草薙の剣を神体とする熱田。
京都御所の護りの頂点でもある賀茂。
伊勢直系の護り、熊野。
大陸との港の護りを受けた住吉。

天神、八幡、稲荷…八百万の名は伊達ではない。この国には、その在り様を変遷させられ、為政者にさまざまな改変を施されつつも千年を超える祈りを蓄積する霊験の社を数多持つ。
その表面的な在り様が変遷したからといって、呪いのシステムそのものが変わってしまうわけではない。

その頂点として、天皇を置く。現人神であることを否定しつつも、そのシステムそのものは維持されてしまった今、この呪いのシステムを消失させるつもりなら、千年の時間を必要とするだろう。
蓄積された祈りを薄め、神社の結界としての機能を失わせ、そこに奉られた神という魂を希薄化させるのは、ずいぶんな時間が必要だ。

と、9割方オカルトネタで書いてみたwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
基本的な概念は間違ってないはずだよ、神道の概念についてはねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

ちなみに、三種の神器はどこに何があるのかは

超・ヒ・ミ・ツって言われてるのでわかりませんwwwww
壇ノ浦で回収されたのは八咫鏡と八尺瓊勾玉だとする説が多いですけどね。宮内庁も伊勢もダンマリじゃわかりませんてww

あるとすれば
八尺瓊勾玉は天皇の在所に。
八咫鏡は伊勢か壇ノ浦の海中かどっかの地方にひっそりと。
草薙の剣は熱田か壇ノ浦の海中か天皇の在所。

いずれにせよ、そもそもこれらの神器、”何がそもそも本当の勾玉、鏡、剣なのか?”という疑問が解けていないので、そもそも”何を持ってホンモノとすればいいのか”がわかってない時点で答えのないミステリー。
知りたい人は勝手に調べるよろしw 何が本当のことか分けわかんなくなること請け合い。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です