ほんとうの

脳筋、というものを教えてやる。

脳筋サクセスストーリー!


えーっとすいません、小学校の時に論理的な思考として、確信を得るための根拠の提示には理論的な裏付けが必要だと習わなかったんですかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

未成年の凶悪犯罪 (1)

また、未成年の凶悪犯罪が起きてしまった‥‥。 ご存知のように、福島県で少年が母親を殺して遺体をバラバラにする、という私としては、想像しただけで吐き気をもよおす、そんな事件であった。



あまりに面白い脳筋だから(1)から全部引用しちゃうよ?
さあ、毎度の文章解析いってみよぅっ!

また凶悪事件が起きてしまった~

まるで他人事をさも心配しているかのような偽善者がよく使う言い回しです。覚えておきましょう。嘆いているようで、何も感じていませんし特になんとも思っていない時によく用いられます。
類似品として、「母親を子供が殺す、こんな凄惨な事件があってよいのか!」といった紋切口調の切り出しによる問題提起もたいてい同類です。
想像しただけで吐き気をもよおす、なんて言ってますが想像ひとつしていないでしょう。

ていうか、できるわけがないのですから。

なぜなら、ひとを殺し、そして人が死ぬのをまざまざと完全に想像出来うるのは、”人を殺したことがある人間”だけです。

人を殺したことのない人間は、それを不完全にしか想像できません。それを、あたかも想像できるがごとく書くとは傲慢で尊大です。自分が一段上から見下しているのだと、文章の端ばしからにじみ出てきています。我々は、”何を持ってして、殺人の悲惨さを想像できるのか”?

人ひとり殺したこともないくせにまあいけしゃあしゃあと殺人者を否定するもんだな。
殺人がタブーとして定義されているのはあくまで人間の社会構成を生み出すのに殺人行為による損失が利得よりも大きいからだ。
別に自然界で同族殺しなど当たり前におきるし、人間も多様性と複雑性を持つものの、自然界の存在の一つであることは事実だろ。
社会性を身につけられなければ殺人者は生まれうる。それが”発生しえない”などと前提に置くこと、それ自体が既に発端として誤っている。

殺人者は発生しうる。常に。どんな状況下であれ。必ず、だ。
それは、先天的な病気と同じで、遺伝子欠損だろうが後天的社会性喪失だろうが、とにかく生まれうる。
その回避も防止も不可避だ。
可能なのは、そのパーセンテージを、特に後天的要因におけるパーセンテージを低下させることだけだ。

たぶんこいつが言いたいのはこういうことなんだろうが、文章が傲慢すぎて全く伝わってこない。

★呆れた★

少年は母親に対しては「殺意はなかった」ということだ。地球上には50億人以上の人が暮らしている。そのうちのたった1人のために、自分の人生を棒に振るようなことをするとは私は信じられない。私も、今後、様々な人と関わることが否応なしにあると思うが、どんなに嫌いな人がいても、そんなことはしたくはないものだ。



ないものだ、だと。そのうちたった一人のために、命張れる、そう思えるのが家族ってもんだ。
何を甘えてる。誰も愛したこともないのか、この馬鹿。
この事件、端に他人を殺したって話じゃなくて、それが家族だったからこその衝撃を持っていたはずだ。
だが、この餓鬼はこの一言で見ず知らずの誰かを殺したただの通り魔事件と同じに評価してやがる。
一番人の痛みを理解できてないのはお前だ。

★そしてこうつなぐ★

アメリカでは、未成年の凶悪犯罪の温床の1つにテレビゲームなどのゲーム類が挙げられている。具体的には、シューティング・ゲームと呼ばれるもので、内容としては、射撃手が敵の兵士を撃っていくというものであるが、撃たれたゲームの中の兵士がとても残酷に描かれている。

 撃たれた兵士から大量の血が噴出すのである。

 また、当地でのニュース番組を見たが、更に手投げ弾を相手の兵士に向けて投げ、ぶっ飛ばして殺すというものもあり、実にリアルであった。

 これで遊んでいる人にとっては、快感かもしれない。また、自分が撃たなかったら、逆にゲームオーバーとなってしまう。



そう、確かにそういうゲームはある。っていうか吉野が大喜びでやってるね。
実にリアルであった。ほうほう。

あれをリアルと感じるには、実体験か、もしくはそれに類する体験か知識が必要だ。
それは、どこから得たのだ?

もういい加減私の言いたいこともわかるだろう。彼の理屈は、とある実体験や知識を元にしなければ構築できない。
そして、彼は”その実体験や知識を構築するもの”を消せ、と言ったのだ。

これは、言うまでもなく論理におけるパラドックスパラダイムだ。

「私はうそつきだ」という人は、嘘付きか、それとも正直者か?

このコラムが全文このシステムを根源としていることに気付かなければならない。

我々が”死”を”死”として認識するには何かしらの”死”の体験や知識が必要なのだ。
殺人を”殺人”として認識するには、何かしらの”殺人”の体験や知識が必要なのだ。

それは、良い、悪い、の単純二極論ではない。
人間は、”学習”する生き物にすぎない。学習するには学習するためのものがいるのだ。
それは、個という存在性を持つ以上、その認識と学習に必要となる部材は画一化できない。
エントロピーの肥大化は縮小へは向かわない。

60億、というエントロピーの根源を持つ以上、その上に発生する体験と知識を与える学習パターンの組み合わせはほぼ無限大まで増大する。

彼の論理はこの後、マンガへの攻撃にシフトするが、何の意味もない言葉遊びだ。
彼はいったい何を確信したのか。その確信を与えた根源は何か。

殺人という行為に対する学習手段を失わせたとき、誰が社会において殺人が悪であると定義できる?
誰にもそれは定義できなくなる。
意味論のなかに置いて、意味を喪失した事象は再定義されるまで、それは“意味”を喪失したままだ。

誰も”殺人”という行為を知らなければ、たとえ殺人を行使していてもそれが”殺人”であると認識できない。
自分の理屈のおかしさに気が付けよ阿呆。ジョークもたいがいにしろ。

科学的根拠も示さず、統計的データも提示せず、ただ「確信する」などという一言で論拠に対する否定などというパラドックスを平然と吐き捨てるその精神。まさに脳筋。これが今の大学生とやらか。

君の言葉を借りるなら、君のような大学生が生まれてくるのであれば、子孫は生まれなくてよい。私は君のような人間であふれた世界が愚劣で劣悪なものとなることを確信した。よって、すべての一定年齢以下の人間は殺すべきだ。

この理屈に、君は同意できるのか? できないなら吐いた唾を舐め取っておくことだ。

0 thoughts on “ほんとうの

  1. まあなんだ。一言で言うと。
    自分のBlogPetがムカついてしょうがないんだが、なんなんだこいつは。
    こないだクリックしたら「馬鹿♪」って言われたし!

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