独立運動とはテロリズムか、否か。そのいち

国家、という枠組みは非常にその境界があやふやです。特に、大陸方面などの国境線が陸続きな場所ではその傾向はさらに顕著ですね。

日本は島国ですので、あまりそのへんの意識は薄いのかもしれませんが。

中国共産党。中華民国の第一党にして最大与党。というか野党の存在を認めるようになったんだっけ?w
ロシアの共産体制の崩壊に伴い、全世界において最大かつ最悪の共産主義国家。

さて。世の中には、そして特にこの日本にはこの中国共産党がやたらめったら大好きな人たちが結構居ます。
マスメディアなどは特にその傾向が強く、朝日などはその代表格、共同通信社のようなニュース配信元の影響を受け、地方新聞も多くがこの中共よりの左翼、である傾向が非常に強いです。


これらの左翼の大きな特徴は、主に人権、平等、平和主義、博愛などの言葉に集約され、これらの言葉を盾にして自らの主張を通そうとします。
この主張の多くが、中国や韓国といった大陸の隣接国に有益となるような主張を中心とするため、国益にそぐわない、あるいは利敵・売国行為ではないのか、といった批判もしばしば発生しますって言うかまあもうなりふりかまってないんで明らかに利敵・売国行為に見えるんですけどね。

たとえば、在日韓国人の方たちの国籍は韓国、もしくは北朝鮮であり、特別永住権を得ているに過ぎません。つまり、日本国民としては扱われず、あくまで特別永住外国人に当たるわけですが、これを人権、平等などの言葉を盾にして日本国民と同等の権利を与えよ、といった運動や、死刑囚にも人権がある、よって死刑は廃止すべきであるといった論調を一般的にはさします。

愛国心を教育基本法に盛り込むのに戦争賛美だとしてだいたいこの辺が理由だったりします。
戦争しちゃいけないのは当たり前なんですか、そこから一足飛びに非暴力・非武装まですっ飛ぶにはあまりに論理飛躍が大きすぎるのですが、これらの平等だとか平和だとか戦争放棄だとかってのは言葉としてはとてもきれいであり、耳に心地よいため、「現実解」を選択できず、理想解を追い求めてしまうタイプの人間には非常に共感を得てしまいます。

理想解を追いやすい人ってのは、いわゆる俺の夢を追っかけてるぜ!みたいなひとが結構多くて。その行為自体が現実見えてないがゆえに突っ走って、そのうちの一握りが成功するわけですから、結果として成功したアーティストなどには含有比率が比較的大きくなってきます。
まあ言っちゃえば子供なわけですが。

これらの人々は社会への訴求力というものが一般の現実的な人間よりも大きくなりますから、社会全体が左傾化しやすくなります。
これまでの日本の自虐史観というのは、このようにして形成され続けてきました。

しかし、一方で、ネットの発達により一般人の情報発信力が急速に高まったことにより、これらの人々の影響力が相対的に低下し始めたわけです。
これを、各新聞は右傾化と呼んでいますが、ぶっちゃけこれまでが左過ぎってのが一般人の感覚なんじゃないかな、と私は思いますね。中道化とよぶならともかく、一番左から見れば、何がおきたって右傾化に見えているだけ、なわけです。

だからって右翼がよいって話ではないので。右翼もまた理想解を追い求めている人々に過ぎません。
あくまで、現実解に沿う、という人にとっては、右翼もまた異質なものでしかないのですから。
同じ理想解を追っているのになぜ右翼がマスメディア支配にいたれないか、というのはまた別の話ですが、これはあくまでやじろべえの世界の話に過ぎません。
以前大きく右に触れた(戦前)ため、その揺り返しで戦後は左に触れます。その後、転換期を迎えると今度は当然左翼のバカさ加減に目を覚ました一般人の手によって右に戻されます。
これを繰り返しているだけです、社会ってのは。で、この触れ幅が大きすぎると極端なナショナリズムなどに根ざした暴力行為に発展する可能性が大きくはなりますが、常にある一定幅でゆらゆらゆれている分にはとっても正常で正しい社会のあり方に過ぎません。

右も左も、本来は究極的にはナショナリズムに根ざしているのですが、現在の日本の似非左翼は左翼としての本質を持たないため、中共の手下、あるいは地球市民的な言葉にだまされて中共の操り人形化してしまっているんですね。
で、それでも自分の意思で動いていると思ってるから始末に負えない。
本来の左翼ってのは国民全員を平等に幸せにすることが目的であって、そこに非武装だとか戦争放棄なんて目的はありません。それらを手段としてとることはありえますが、それが目的ではありません。
目的は平等社会の形成であり、単一国家の中において国民に平等に幸福を与えることが目的です。

ですから、特別永住外国人を国民と平等に扱う、といった主張はそもそも左翼の根底の本質から明らかに逸脱してしまっており、それを補うために生まれたのがわれら地球市民などといったグローバリズムになるわけです。
単一国家内の意識の統一化もできないのにグローバリズムなどといったものがどれほどの夢物語か、ってのはバカでもわかるはずなんですが、結局理想解を追ってしまうがゆえに盲目になってしまっている部分かもしれませんね。
最初に「夢を追っちゃう人たち」って表現したのはこういう経緯もあるからなんですね。

さてさて。
なんでこんなことを書くか、というと。チベットの話をしようと思ったんですが、長くなってきたのでエントリを分けましょうか。

0 thoughts on “独立運動とはテロリズムか、否か。そのいち

  1. こんばんは、一応、黒華(クロカ)と名乗らせていただきます
    あなたのブログ読ませていただきました
    なかなか興味深いですね(^ω^ )
    でも怖くなってきました・・・・・・
    そこで沙耶さんに鑑定していただきたいのですが
    私の父がおととい病院で心筋梗塞と診断されその日のうちに手術を受けました
    そして今も入院中です
    母いわく、割と元気なのでと聞きほっとしました。
    まぁ原因は歳と(最近は控えていたようですが)お酒とコレステロールが
    原因ではないかと思います、が
    もしかして私が原因ではないかと少し考えてしまいました
    なぜなら私は良くこんな事を考えてしまうからです。
    黒華(クロカ)の日記
    2006年12月30日
    03:16 おかしいかな?
    私は良く頭の中で「○○め地獄に落ちろ」
    とか心にもない単語が浮かび上がってしまう。
    それはなぜか神や仏に対してもである・・・・・
    心の根底ではそんなこと考えてないのに・・・・・
    そしてそういった単語が浮かび上がった後
    「そんなこと考えてないですごめんなさい!」と思い直す。
    本当はそんなひどいことなんか考えてないのに・・・・・
    私頭がイカれてるのかな?
    と、日記より引用しましたがこんな感じです
    まさかそのせいで父は病気にかかってしまったのではないかと?
    そして私はどうなってしまうのでしょうか?
    鑑定をお願いします。
    P.S
    新年早々訳のわからない話を持ちかけ
    すみませんがよろしくお願いします。
    ちなみに初詣は文殊寺と山王様(サルの神様)が祭られている神社と
    地元の氏神様の神社へ行きました(そこにはお稲荷様も合祀されています)
    この文章をメールで送ろうとしたのですが
    なぜか送れませんでした(´・ω・`)

  2. 沈黙の霧発動wwwwww
    鑑定ってwwwww いつからウチは霊能者や人生相談所になったんだw
    鑑定しますwww(すんのかよwwwww
    A:気のせいですwwwwwww
    つまんねーことに理由を求めてはいけません。目に見えるものが因果応報のすべてであるなどとお釈迦様は説いていません。
    業のつながりや連鎖も、すべて空を説明するための方便です。
    自分の目に見える程度の因果なら自分の手で断ち切りなさい。
    神や仏は神社やお寺にいるのではなく、自分自身の中にいるものです。それを神にするのも仏にするのも悪魔にするのも悪鬼に仕立て上げるのも、自分自身です。
    因果に原因を求めて、それを言い訳にするくらいなら前向きに善処しなさいばかたれ。
    病気なら治るよう努力し、最大限の治療に当たりなさい。神社にいくならちゃんと祈っておきなさい。
    神や仏に地獄に落ちろって意味わかりません。地獄も天国も方便として生み出された人間の概念のひとつに過ぎません。
    そんな念じる程度で罰があたるなら私は今頃地獄の三丁目を20回は回ってこなくては並んでしょうがwwwww
    ただの中ニ病か精神疾患なので、テキトウに病院にいって見ましょう。だいぶ気が楽になると思います^^;
    目に見える程度のことでいちいち悩むのは人間の特権でもあるのでしょうが、神や仏を知りもしないで評するのは良くないことですよ。
    宗教が何を説き、何を伝えようとしたのか、そして、今の宗教のにわか信者どもがその何を理解せず、何を学んでいないのか。そういう点は自分自身で一つ一つ学びなさい。それができるまで、神も仏もこの世にはいません。
    そして、それができたときに、神も仏もこの世のどこかに生まれているでしょう。
    第三者的視点で見れるなら、自分の中に。
    自分の決断が未来を作り、時間をつむぐ。
    貴方には貴方の未来が。たくさんの人々の決断の組み合わせで、時間は作られていくのだから。その決断の組み合わせと生まれていく流れが業と因果であり、そのつながりの原因と結果が応報。
    他人の決断は貴方には変えられない。貴方ができることといったら、より良い未来を得るためにより良い選択を行い続けるだけ。
    それがよりよい未来を引き寄せると信じて、ね。
    これが信仰。だから私は信仰を否定もしないし肯定もしない。
    それは当たり前の摂理に過ぎず、あえて語り、信じなければ成り立たないような陳腐なものではないからだ。
    情けは人のためならず。境遇を嘆いたり疑心を募らせるヒマがあるなら努力のひとつでもしたらどうよ。神頼みなんぞしてねぇでさ。
    病院のオヤジに孝行のひとつでもしろよ。それがオヤジの生きる元気になるかもしれんだろうが。
    孝行したいときに親はなし。自分にできる全部の努力をして、それでもダメなら神でも仏でもすがれ。どーせ何もしちゃくれないが、それで神と仏を憎むなら憎めばいい。そのために彼らは「居る」。
    ここまでの道理すらわからないなら、オヤジの看病がんばれ。ンで20年経ってから読み直せ。
    あと、こんな電波文章メールできたら華麗にゴミ箱だぞこんなんwwwwwww

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