命の対価

さて…先に資産を処分しろ、と言っているのではない。そうとしか読めなかったのなら申し訳ない。ものの見方ってのは千差万別だから、私の見方と違う見方があるのは当然だし、どちらが正義か、なんてくだらない話をするつもりもない。絶対の正義などないのだから。
たとえそれが無差別殺人だろうが通り魔殺人だろうが、絶対なんてものはない。
そもそも正義も悪も人間の概念に過ぎないし、より多くの意見を集めた共通認識が正義だ悪だと騒がれているに過ぎないのだからね。


アカの他人にアカの他人の子供を助けてくれ、と言ってるんだ。その点に相違はないよね。
さくらちゃんが難病でお金がいるのも事実だ。
問題なのは、両親が”どういう姿勢なのか”が見えなかったことにある。
なりふりかまわずにかき集めても足らなかったのだろうか。
ならばなぜ家が売りに出ていないの?
NHKの職員からのカンパはいくらで、いくら足りなかったの?
って疑問は出てくるんじゃないかな?
どんぶり勘定で目標額を決められたらたまらん、ってことだ。事実、これまで何件もそういう募金が立て続いたって経緯もある。トリオが妙に絡んでるのは確かに胡散臭いがね。

家が処分できるかできないか、緊急性の高い必要資金として現金化できるかどうか?って言うことを言ってる人はほとんどいないと思うよ?
売りに出す姿勢が”ない”ことを問題視されてるんだ。

たとえばさ、今回の話が、家は買い手募集状態にでもなっていて、術後の費用などは家が売れればそれをあて、残りは次の難病患者に回します、って最初に宣言されていたらこんなことは起こらなかったと思うのだけど。
それでも社会が彼らに緊急性の高い金額を”まず”処分してから足りない分を、と迫るとは思えないのだが?
その姿勢の部分があまりにも希薄に感じられる、という社会の反応に過ぎないのではないだろうか。

それを親の収入へのやっかみと取るのは見方として違和感を感じるなぁ…。
もちろん、そういう人も含まれてはいるだろうけどね。
すべてをそうだと断ずるのはあまりに乱暴ではないかい?
北朝鮮のミサイル発射で制裁発動に賛成したやつは全員右翼の軍国主義者だって言ってるのと同じじゃないかな。

資産はあるけど緊急に現金化できないが、現金が急ぎ必要だ、資産処分して術後の経過にはそちらを当てるから、緊急性の高い部分への援助がほしい、というならその募金になんの疑問もないんだが、彼らはそうは言ってない。資産は残すが、それは思い出であり生活基盤だから現金化しない、といったんだ。
その時点で、生活基盤すべてを投げ打ってでも子供を助けたい、という親子の愛情が感じられない、と感じる人が現れてもおかしくないことない?
親子の愛情に夢見すぎかね? 親がすべて投げ打ってでも助けたいって思わない子供に、社会が救う責務を負うってなんかおかしくねぇかな?

社会に対してその子を救う責任を押し付けるのはどうなのだろうか? その責任と義務が社会構成のすべての人に等しくある、ということなら、その子はアカの他人でもなんでもない。税金で救うのがスジだ。
現在の日本社会でその地位を確立しているのは皇族だけだと認識しているが。

どのように救うか、を考えなければならんのは社会ではなくて親。アカの他人が救う方法を論じる責務はないと思う。それはただの無責任だ。
そのときに親の行動が、たとえ全力でかき集めても足りなかったということだったにしても”アカの他人にどう見られるか”を考えずに行動すれば、あるいは考えが及ばなかったとしたら、そのはねっかえりが親に向くのもまた自然。
そして、その行動をとってしまった親にはそのはねっかえりを受ける義務が発生するよね。違うかな?

もうひとつの問題は、今回の件が多くの人に騒がれてしまったことによって、本当にお金がなくて困っている人、もちろんさくらちゃんを含めてだが、その人たちが名乗り出ることをためらわせる効果が発生してしまったことだ。
これはこの両親二人で背負えるようなもんでもない。自分たちの起こした行動が、背負いきれないキックバックを発生させたこと。その罪の所在を社会に向けるのも、またスジをたがえているんじゃないかな?

こうしてエントリを書いたことで、私も騒いだ一人にということになる。書きかけのまま公開しなかったのも、その点だ。
だからこそ、嫌味でもなんでもなく、真摯に答えたいと思うし、それが、ここに書いたことへ対する責任だと思う。

誰しもがお金を有り余らせてて、お札に火をつけて明かりにするような生活をしてるわけじゃない。それでも、そんな生活の中からでも、子供っていう罪のない生き物を助けたいと願い、そこに善意でのお金を投じるんだ。
それは一円だろうと決して軽くはない、と思う。
だけど、集まったお金はとっても大きな金額になり、それを受け取った人の感覚を麻痺させるのに十分な桁と魔力を持ってしまう。
そのときに、どれだけの人がその魔力に抗えるだろうか。
私たちは、親が子供に対する愛情、というものを信じる。魔力に抗うだけの力があると。だからこそ、そこに疑わしき行為をさしはさまれたとき、社会が抱いた信頼を踏みにじられた、と感じたんじゃないかな?
青臭い言い方ではあると思うけどね。

彼らには社会に求める代わりに、それが社会を構成する多くの人を納得させうるだけの訴求力を持つ魔力ある言葉で訴えなければならなかった。
そして、その言葉の魔力があまりにも足らない、そう感じた人が少なからずいた。そういうことではないのかな。

あなたの言うようにともすれば自殺してでも子供を助けようとする親だっているだろうし、募金なんて思いつきもしないまま、子供を見送らなければならなかった親御さんだっているだろう。
最後の一言は、そういう人たちを弱者と切り捨てて、死んでしかるべきと言い放った言葉に見えてしまうよ?
私は、社会に募金を求めた彼らよりもずっと強い心を持った人たちだと感じる。だからといって、そうしろ、とかそうすべき、といっているのではないが。そんな手段に訴えるくらいなら社会に訴えてほしいし、その言葉は十二分な魔力を持って訴求されてくるだろうさ。
そういう人たちこそ、救われるべきじゃないかと思うだけだ。

生活基盤が大事だから、と言っている人が、あなたの言うように死んででもお金を作るとは到底思えない、という感覚を抱かせるに十分な言葉を吐いた、というハナシ。価値観レベルのハナシだからこの辺は人それぞれだろうけどねぇ…。

私たちは結局アカの他人だから、彼らの行動とその結果しか見えないんだよ。
だからこそ、他人に見えてしまう部分をしっかりと襟を正すべきなんじゃないかな?
その部分をいい加減に処理することの理由として、緊急性の高い子供の病気、というものを使ったことに対して、やりきれない思いを抱かせられてしまっていることが問題の本質かと思う。
現金化できるかどうかとか、そういう表層問題を言っているのではない、と感じたが。

少しは答えになってるだろうか。

0 thoughts on “命の対価

  1. この騒動、親に対する妬み、嫉みにしか見えんのだが。少なくとも、この子を如何にして救うかを考えて言ってるようには見えんな。まあ、しょせん赤の他人の命なんて、どうでもいいと思ってるんだろうな。
     
    どんな家か知らんが、大きければ大きいほど、簡単には売れんだろう。車なら現金化しやすいだろうが、よっぽど特別な車じゃない限り、1台や2台を売ったお金が9000万にもならんのちがうか。つーか、そんな車だと、さすがに中古屋も簡単には買ってくれないんじゃないか。
    ローンがついてたら家を担保にお金を借りることもできんし、現金化に手間取る資産しかない場合、少しでも早くデポジットの現金を揃えるのに、どういう手があるだろうね。
    現金が無いんです、何とか助けて、という親に対して、社会は、先に資産を処分したら、と迫り、資産を処分している間に子供は死にました。親は、資産なんかではなく現金で持っておけば、と一生悔やみ続け、社会は残念だったね、と一言言って忘れ去る。なんてすばらしい社会なんでしょうね。
     
     
    トリオはなんか胡散臭いけど。
    ああ、現金化する手が一つあった。サラ金に保険かけて金借りて、自殺すれば良いんだよね。

  2. そもそも親が「自分で金を作ろうとしない」のを問題視してるんじゃないの?
    自分の子供を救うためには、まず周囲から信用を得ないと。
    北の将軍様が「うちの国民が死にそうだから援助よこせ」と言ってるのとどこが違う?

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