贖罪。罪を贖う、と記す言葉。
謝罪。罪を謝る、と記す言葉。
免罪。罪を免れると記す言葉。
さて。
彼の言葉は一体なんなのだろうか。
罪とは本人がそれと意識しなければ罪とならない。
だって、それが罪だと思っていないから。人を殺そうが喰らおうが何が悪いとも思わない。
だから、人を殺しておいて、「生きたい」などと叫ぶことができる。
罪を自覚していれば、取り返せないものであることを知っているなら、決して叫べない言葉を。
口にできる。
いじめの論理ってのはこれと変わらない。
いじめてる側にはいじめてる側の正義がある。いじめられてる側にも、いじめられてる側の正義がある。
たとえそれが、どれほどいびつであったとしても、彼らの小さな世界の中では正義。
そうしないと次は自分、なんて強迫観念すらも、正義。
迎合することで自己を殺し、他者を見下すことで優位性を再認識する行為も。
他者と迎合する努力をせず、自己の特殊性を認識しえないのも正義。
そのいずれも、社会の中では特殊とされるケース。どこまでを個性とするのか、どこからを異常とするのかのライン引きは、”常識”とか”一般”とかのあいまいな言語でくくられた不確定な範囲。
あとは、どちらの正義がより社会的ルールに合致するか、という程度論でしかない。
いじめている側が悪い、と断罪するのはこの過失割合を相殺した結果として、いじめ側がバランスを欠く、という判断。
いじめられている側も悪い、というのは、過失を相殺せずに双方の過失を認めあうことを強要する判断。
どちらがどちらとも言えない。心情的に理解できるのは相殺したうえでの一定点からの視点を持つことのほうが、感覚的には私は把握しやすいけれど、それはときとして、一方的な視野をもたらしやすい。
個々人によって双方の過失判断は異なっており、それを個々人で相殺するのだから、立脚点によってその判断はまるで変わる。
他方で、双方の主張点に立つのはある意味では非常に公正なのだが、その視点を得るために必要となる情報は多岐にわたり、その立脚点を構築するのにはとても時間がかかる。
こちらは裁判官などが持たなければならない視点で、彼らは、その上で最終的には相殺を行う。
いじめ問題でいじめられている側も悪い、という発言をする場合、この最終相殺は行われていない。
単なる対抗弁論にすぎず、刑事裁判における被告弁護の主張の領域から先へは進まない。
最終判断をするのは俺じゃない、というスタンスだ。
もちろん、それも一つの手段だと思うので、いい悪いは問わない。
ただ、世間様の出来事のすべてを自分ではない誰かの判断にゆだねてしまうことなど、私はしたくもないししたいとも思わない。それは宗教じゃないか。
だから、常に自分でその最終判断は下す。それが、ヒトであり、生きていて、考えることそのものが神様なんだよなんつー大口叩いた責任でもある。
さて。じゃあいじめてるやつといじめられてるやつ、誰が悪いんだろうね。
謝りたい、といった彼は何がしたいのか。
複数の意見がいろいろ述べられてる。
いじめられている(た)側の意見としては
・二度と関与するな
・謝りに来たらブン殴るか無視
・自分だけ謝って楽になる気か
いじめてる(た)側の意見としては
・特殊性を打ち出し過ぎて大衆に迎合できなかったのは自業自得
・個性をある程度殺せるだけの社会性も持たない人間には反発があって当然
まーこんなとこだろ。もともと餓鬼の精神性なんぞそれほど高くもないし。左翼にかぶれやすいしな。
現実見えてないのはどっちもどっちだ。
大衆的観点からモノをいうなら、いじめてる側の論理のほうが大衆性を持つ。
いじめられている側の論理ってのはどちらかというと個人性を重視している話。
どっちが正しいのかって? どっちも正しいんだよ。こんなのただのバランスの話。
さて。しかしだな。いじめてる側が悪い、って理屈はここから先に現れる言動に起因するんだよ。
思想だけならこのどちらも問題はない。至極その通り。
だが、それを行動に移すことが問題なんだよ。
その行動が度を越せばいじめになり、度を越さなければ社会的制裁の範疇。
だが、ガキにはその程度がわからないっていうかそんなの大人だって分からない。
大人だって大衆暴動起こすのに、子供にできるわけがねぇだろそんなの。
そもそも社会制裁なんてのは権力vs大衆の構造を持たない限りただの無軌道な暴力となる。
そういうことだ。
いじめられてる子は権力者じゃない。
権力対立構造を描けないなら、群衆での暴動は起こすべきではない。それは、許されない。
いや、権力対立があれば許されるのかって話になると許されないんだが。
群衆暴動は権力構図を逆転させ、権力を群衆側に移し、行為を正当化する最終手段だ。
最終的に正当化するアプローチがない暴徒など、ただの暴力でしかない。
さーて。行動に移った時点で、沙耶はそれを暴徒と断定する。罪は行動を起こした側にある。
そう判断する。
文句あるか? 思想だけなら自由だ。あいつきらいでもキモいでも反吐が出るでも死ねとでも好きに思っとけ。行動した時点で沙耶は貴様を反社会的と判断する。
思想をぶつけあったって何にもならん。”何をしたか”、”何をされたのか”その直接的な行動を持ってその思想の実現化へのアプローチとみなし、その思想の危険性を断罪する。
だから、おまいらがいくらいじめられてる側だって悪いだろって言い放ったところで、”いじめる”という行為に至った時点で貴様らが悪い。一意的なものの見方だが、全体を知りつくし、公正視点をとれない以上、沙耶の断罪はそこで切る。
それ以上に立ち入る気もない。
では、行為への謝罪というならば。
ここの会話が一番参考になるかな。
★ 自己満足だよ ★
386 :マジレスさん :2006/02/07(火) 13:46:57 ID:rtlEPe42
謝るなんて行為はもともと自己満足でしかないぞ?
390 :マジレスさん :2006/02/07(火) 13:54:25 ID:j7IQTZ8H
>>386
そう?自己満足のために謝るものと、本当に悪いと思っての謝罪は違うと思う。
相手の気持ちを考えない謝罪は自己満足になりかねない
謝って少しでも「悪いと感じてくれたんだな」と思う相手ならいい
逆効果という場合もある
まあ相手の考え方はわかりかねるから難しいところだと思うけどね
391 :マジレスさん :2006/02/07(火) 14:01:12 ID:rtlEPe42
謝るのは許してもらいたいと思ってるから謝るんだろ。
相手の本当の気持ちがわからない以上謝るという行為は自己満足でしかない
392 :マジレスさん :2006/02/07(火) 14:14:14 ID:j7IQTZ8H
自己満足は字の通りでしょ。謝罪が全て自己満足によるものとは思わないなあ
押し付けがましい自分だけ満足すればいいという心持の謝罪は自己満足になると思う
相手の気持ちを考えない謝罪は自己満足になりかねない =自分が謝れば満足 というやつね
説明しにくいんだけど、こう思う。でも確信はない。難しい
397 :マジレスさん :2006/02/07(火) 15:24:54 ID:rtlEPe42
>>392
主観で見ればあなたの言うように謝り方によって自己満足ではないかもしれない
しかし客観的に見れば謝るという行為は自己満足と言い切れる。
さっきも言ったように相手の気持ちがわからない以上
心のどこかで謝れれば許されると思っているから謝れる
だったら気が済むなら素直に謝るべき
402 :マジレスさん :2006/02/08(水) 11:37:27 ID:h6AEfInn
謝罪はすべきだと思う。「謝ったからといって過去は消えない」これには
同意だが、謝る以外にできる事なんてない。例え相手からしたら自己満足でしか
なくても謝るべき。それが誠意ってやつだと思う。そこで拒否られたらもう仕方ないよ。
俺は小学校時代にいじめてた奴に最近謝ったが、笑顔で許してもらえたよ。
自分の罪が消えたとはこれっぽっちも思わないけど。
許しを得たいのか。それとも、単に自己の精神の安寧のために謝罪という行為をしたいのか。
さてさて。
謝罪、という行為。それは、単に相手に謝るというだけではない。
贖罪を見据えたうえでの謝罪をするというなら、それは決して相手に「ごめんなさい」と言えばいいって話でもない。
謝罪なんて、行為に到る当人にとってみてはどれほどの大義名分を掲げようが他者からすればそれは自己満足でしかない。
表面的な”許し”を得ることを最終目的とした、ささやかでバカバカしくてくだらない、目先だけを見たどーしよーもない行為。
やりたいならやれば? だからどうした? それで何が変わる? 許された?
許されたなら過去の行為が消えるかい?
その行為で対象が失ったものがもとに戻るのかい?
君はそれを元に戻せるのかい?
ばかばかしい。なんだその自己満足。謝罪、というなら行為で示せ。二度と同じことが起きないように、そのために何をすればいいのかを考えろ。
謝るのなんて、そのあとでもいいだろう。というか、そのあとでしか”できない”はずだ。自己の罪を罪と認めるなら。
その”行為”なくして謝罪行為だけするなんざ、自分の罪を認識していないのと同じだ。
生きたい、と叫ぶあの餓鬼と変わらん。
罪を罪と認めること。そこから贖罪が始まる。
罪を罪と認めて、安易に謝罪でそれが消えると思っているなら、それは中世のバカどもの免罪符以上の価値はない。
お前の罪を赦すのはほかの誰でもない。お前自身だ。
被害者でも、その他大勢でもない。
自分自身の中の神様にでも赦してもらえ。
それができないなら、どっかの神様にでも馬鹿みたいに祈ってろ。
毎日ってなに?