カルネアデスの舟板

緊急避難。トロッコ問題。

多くを救うために一人を犠牲にするのは正しいのかというフレーズを聞いたことは?

袋に詰め込まれた誰だかわからない人間は殺してもよいという言葉に聞き覚えはある?

さっきからずっと

あなたの後ろにいるのは誰?

沙耶です。


冒頭の句は出所不明の有名?な怪電波文のもじりなのであまり気にしないでください。
気になる人はアルミホイル 六角電波でググれ。

このアンニュイで正誤と主体があやふやで認識の境界を強制的に漂わせるこのオリジナルはかなり好きな文面の一つ。
元ネタはイリヤの空かね。

さてさて。タイトル。カルネアデスの舟板。

有名なオーパーツである。1942年、ギリシャのカルネアデス島でみつかった一枚の板。それが、古代の舟の残骸の一部であることは容易に突き止められたのだが、そのたった一枚の板から驚くべきものがみつかったのである。

板自体は紀元前8世紀前後のものとみられ、決して人類の歴史から外れていないにも関わらず、その板に付着していた生物の死骸は、古生代に生息していた原始生物のものであると推測されたのだ。
いわゆる先カンブリア紀にあたり、まだ生物の多くは陸上に出ていくこともなかった時代である。

残念ながら、この舟板、ギリシャの博物館に収蔵されたのだが火災で喪失し、現在は写真しか残っていない。






というのは全部嘘である。

カルネアデスの舟板とは、緊急避難の際に他人の人権を踏みにじってもよいのか、という思考実験とパラドックス。
ちなみに、緊急避難の際に緊急避難を目的とした殺人は正当なものとみなされる。
殺人罪に問われることはない。

ある舟が難破し、男は舟の残骸の板につかまって波間を漂っていた。
そこへ、同じように遭難した男が、男のつかまっている舟板につかまるつもりで近寄って来た。
二人でつかまったら舟板は沈むかもしれない。

板につかまっている男は、近寄って来た男を蹴り飛ばし、海に沈めた。

さて、男の行為は正当だろうか。

というのが問題。

トロッコ問題はこちら

また、臓器くじなんかは星新一のショートショートの中に似たような話もある。

つまり、倫理学において人は命の足し算引き算をするべきか、どうか。という問題提示。

なんでこんな話をするかというと、昨日の話とはまるで無関係でしてwwww


問題:無人島に漂着した4人が3人乗りのいかだしかない状況でどう脱出するか

小中学校でこの思考実験に類することをやったみたいですね。ちなみに、”見ず知らずの他人”ならほとんどの人が最大多数が助かる選択をしようとする傾向にありますが、”見ず知らず”が”自分の恋人、家族”に置き換わるとこの割合は逆転します。

命の順列が存在することを提示する思考実験の一つですね。

ちょっとこの学校でやってるのは主題が弱いがw いかだで外洋航海する危険性を考えたら島に残るのが正解ですから、もうひとつ、島に残る=死である条件が必要ですね。

このときに一人を殺して三人で脱出するのが正当であるかどうか。そしてその一人を選ぶ方法は?

ってのが主題でしょうね。


小中学生にトラウマ植えつけたいんですか、この教師はwwwwwww
この手の思考実験はわりと面白いものも多くて大好きです。答えなんかありません。

あなたが思ったこと、それが答えです。
沙耶はたぶんくじ引きで一人を能動的か受動的かはともかく、殺しますね。緊急避難を適用して。んで娘が細工したくじで自分の娘が人柱になってしまう庄屋ですね。まんが日本昔話ですねわかります。

要はテーマとしては割と昔からあるものです。

誰かを殺すくらいなら自分が、というのも別に間違ってません。
誰かを殺してでも生き残る、というのも間違っていません。
一見すると前者の方がきれいに見えますが、逆に考えてください。

前者は、受動的能動的にかかわらず、誰かを犠牲にして生き延びた、という悔悟をのこる三人に押し付けたのだ、と見ることもできます。
後者はもちろんひどい話に見えますが、そこまでして帰るということは彼の帰りがなければ死んでしまう家族がいるのかもしれません。なんで生きてるかなんて人それぞれですから。

いっそいかだを壊して全員で死を待つ、というのも選択肢なのです。命の選択ができないのなら、ひとしく平等なる死を。
むしろ、命に順列はつかないのだ、と主張するならこの選択がもっとも正しい。
要は、全員死ねば平等です。順列は付いていません。

生と死の二つの間で、生の可能性があるが、その可能性が救える限界数が定まっているとき、救うべきか、救わざるべきか、という命題もここにつながります。

これを怪談調に仕立て上げたのが、これ。

みっつの選択

部屋での行為についてはトロッコ問題そのものであり、部屋が進めば対価がどんどん大きくなっていき、語り部の行為を読者は容認してしまいます。

そして、〆に持ち出された個々の命についての評価で愕然とさせ、これが思考実験であってよかった、とほっとするわけです。

正味、この話が怪談なのは最後の一文だけであとはすべて思考実験そのものです。
何とも言えない読後感と境界のあやふやな不確かさが残りませんか?


あなたなら、どうしますか?

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