転げ落ちてくコトメが視界から消えたところで私はそっとカーテンを閉めた
続・転げ落ちてくコトメが視界から消えたところで私はそっとカーテンを閉めた
まずは楽しく笑ってください。
でも、沙耶はそのあと、この話はちょっと物悲しく、さみしく、そしてせつない話にも思えます。
え、そう思えませんか?
まーコトメちゃんが美人でかわいくて面白い珍獣なのはまあいいとしてw
無能は無能らしく。
やしろがみってなぁんだ?
話からすると、どうやら庭の一角に社を築いて、そこにお招きしている神様、と言うことらしい。
家に上げていれば神棚に入っていただくことになろうかと思うので、家には上げない神様と言うことになる。
この手の祀り方の代表格は、もちろんお稲荷様だろう。しかし、この語り手曰くそもそもこのコトメが言い出すまでやしろがみは蔑ろにされていた、という感じみたいなので、万が一稲荷ならそもそもそれ以前に不幸が起きてておかしくないし、そもそも入ってるのが稲荷なら稲荷って言う方が自然。
民俗学が好きなコトメが稲荷の社程度でここまで一生懸命になるってのもなんか違和感がある。正直、稲荷なんてどこでも見るしね。
これが道端なら清里ってこともあるし道祖神の可能性が高いかな、と思うのだけど。
#長野から関東にかけては道祖神が非常に多い。
やはり長野ってことですし、天孫系とも思えない。
で、まあ「やしろがみ」とおっしゃってますが、おそらく音韻間違いでしょう。
おそらく、本来は「やしきがみ」。
稲荷をお迎えするのと同様に、家屋敷の一角に社を建てて祀る神様。
その神様がナニカ、ってのは実はあまりはっきりしていません。
ご神体やお札があるならそれらから多少わかるとこもあるかもしれませんが、今じゃ伊勢大麻もらって入れちゃってるとこも多いんじゃないでしょうか。
おそらくは氏神の一種であろう、と思われるもので、祖先を祭った社、あるいは農耕の神を祭って豊作を願ったもの、などとされています。
基本的に各戸で祀ったり、一族単位だったりはするものの、祖霊の性質が強いですね。
屋敷神だとすれば家の北西、もしくは北東に社を置きます。北西は農耕における凶風の方角、北東は陰陽道が入った後の鬼門に当たります。
敷地内の大きな木や岩が屋敷神として祀られることもあり、そう言った場合は方角が異なることもあります。
また、厳密に祖霊なのか、っつーとそういうわけでもなくて、地域によっては住む人が変わった場合、変わった人がこれを受け継いだりする土地神の性質も持っています。
#祖霊の場合、一族に対する神なので、神もお引っ越しさせます。
また、この屋敷神、時にはここから鎮守へとクラスアップもします。っていうかそこらの鎮守もけっこう屋敷神からの発展であることは少なくありません。
鎮守、ってのはご存知の通り村の中心などにあって村を守る氏神様になります。
さて、このようにそもそも祖霊を祀っていたのでどこの神様、という類のものではないのですが、後に社を分類するなどの行為によって、各戸の祭神は稲荷だの若宮だの祇園だの天神だの八幡だのに所属を決められたりして、今ではそれらの分類に従っていることも多いです。
このため、屋敷神の一部が屋敷に迎える稲荷と同一視され、稲荷を屋敷神と言っても間違いとは言えないとこですね。
とはいえ、もともとは「ただそこにあった大きな岩」とか「でっかい木」とかを家の敷地の神として祀り、そこに祖霊を帰着させたものなので、むしろ八百万としてのもっとも源流に近い形の信仰と言えるでしょう。
なので、決まりきった形式があるでもなく、むしろ大切にしたい、という思いそのものの方が大事な神様だと思います。
そういう意味で、コトメちゃんのしでかしたリキュールお神酒やスワロフスキーご神体、クジャクの羽根付き薔薇の花束榊なんかはむしろ喜んだんじゃないでしょうか。
もちろん、形式にのっとってやってもらったことも神様はうれしいと思いますが、一生懸命考えたんじゃないですかね? 自分がしてもらってうれしいことは何だろう、それはきっと神様もうれしいんじゃないだろうか。って。
信仰、って多分そういうものじゃないかな、と思うのです。
形や形式にとらわれてしまうと、罰が当たる、なんて言葉で叱られますが、神様は怖いですが、そこまで心はせまくありません。
神様に良かれ、神様のためであれ、と望んで行った行為を咎めた神様はほとんど聞いたことがありません。
単に理不尽な神様はいっぱいいますが、神様のためであれ、と信じた行為を、結果だけを見て罰した神の話は、ほとんど寡黙にして知りません。
それがいい、と信じていたからコトメは無傷だったんですよ。
そうじゃないよ、と知らされてしまったら、信じていたものが消えてしまい、自ら罰を起こしてしまう。
信仰とは、誰か他人の第三者、それこそ神なんて名前のナニカ、がもたらす奇跡ではなく、それを為す人の心のありようと持ちよう、そして心の位置によって罰も幸福も定まるもの。定めるもの。
信仰をするなら、コトメの信仰のように純朴な信仰でありたいなぁ、と思わされる話でもありました。
つまり、コトメさんが育てた、信仰、という神様は形式によって砕かれてしまったのです。
少しずつ育っていた神様が、凡百の形式にのっとった神様になってしまったのは、少し、いや、かなりせつなくて悲しくてさみしい話だと思いますけどね。
1000年後に、何百何万という伝統的な社の中にたった一つだけ、スワロフスキーで着飾られた社が見つかった時。
その時の民俗学者の心がどれほど感動と驚喜に彩られたことだろうと思うと、くやしくてなりませんw