天網恢恢疎にして漏らさず

沙耶です。いつかはきっと天罰が。仏罰が。神罰が。
下るといいですねっwwwwww

憎まれっ子世に憚るとも申しますがw

慣用句や四字熟語ってのは都合のいいものです。
悪事が千里を走ったかと思えば臭いものには蓋されてしまうのです。

ですからどうか。


職場でアホ上司がどう見ても洗脳かと思うようなあほセミナーの資料を持ってきてこれは素晴らしい!とか言っても真に受けないでください。

ええ、10分ほど前の出来事ですが何か。

物事を多角的に見れないってやーねー。
民主だっていいとこいっぱいあるんですよ。たぶん。あるといいな。あるんじゃないかな。ま、ちょっとは覚悟しておけ?

別に9条教だって、絶対悪なわけではないですよ? 視点が固定化されているのが問題なだけで、武力放棄っつー理念はとても素晴らしいと思います。放棄を一発変換したら蜂起って出そうになりましたが。

このように、物事ってのは視点を変えることでその正当性や道理も変化します。そのいずれにも”正義”があります。
そして、時としてこの異なる”正義”はほかの”正義”とその正当性や必然性、存在意義といった根源的な部分で衝突してしまいます。もっともよく衝突するのは宗教ですね。

宗教とはある種の世界そのものの構成原理の記述言語です。これはどの宗教でもほとんど変わりません。
いま、ここにある世界、それを成り立たせているもの、それについての記述様式であり、そのための記述言語であり、それを維持するために信仰という形を持ってして信者の視点を固定化するもの、それが宗教の本質です。

これは残念ながら”科学”も同じであるということは理解できますでしょうか。科学もまた、世界の構成原理の記述言語と様式(法則)で構成された、”固定化された視点”にほかなりません。
ただ、宗教とは異なり、維持するための方法が信仰から観測(実験立証)を干渉とした方法に置き換わっている、という点ですね。これにより、より客観的に、人間の“視点”の介在をなしにその維持のための立証が成立するため、非常に強力な共通言語となっているだけです。

信仰においては同一の視点を持つ人間同士には共通の価値観を形成できますが、異なる視点との価値観形成をするための橋渡しとなる部分を持っていません。また、その視点からなる価値観そのものが世界の構成言語において非常に重要な役割を果たすため、相互運用が非常に困難なものとなっているわけです。科学はあくまで、その点を実験による実証科学、という形態で”世界の存在”そのものに視点を移したものです。

科学もまた、ある種の宗教であり、その結果を人が”信仰”していることには変わりはありません。

このように、人間は何れかの視点、という自身の立ち位置を決めることで見る事象の側面を決定し、その見えている側面に従って、”世界を構成するルール”を自身の中に構築します。
これを、アイデンティティの確立、と言います。どの側面を見たいと望むか、どの側面を見るか、はあなた自身によってのみ決定され、運用されるべきです。本来は。

ここを捻じ曲げることを洗脳、あるいは説得、布教、論破、などと呼びます。
あとはもう程度問題に過ぎません。強引か、それともソフトか、ってだけの違いでしかなく、その本質が異なる視点同士による相手の”信仰”と立ち位置からなる見えている側面に対しての外部からの干渉を持ってする強引な視点変更行為、外部干渉に過ぎません。
もっとも、これがないと人は自分が何を見ているのかを理解できないという素敵な欠陥品ですが。

言ってしまえば人が人である限り、このやり方自体が変わることはありません。

戦争とはこの外部からの視点変更を起こそうとする手段の一つに過ぎません。そして、戦争と対として用いられる平和、はこの視点変更がない状態”ではありません”。
前述のとおり、人は生きてりゃ誰かしら何かしら他者に干渉し、その立ち位置に変更要請を行います。その本質は戦争の本質と何も変わりません。
ですから、戦争の対義語って平和じゃありません。戦争の対義語として多くの人が平和を挙げますが、それは全くその本質の理解が及んでいない証左でしかありません。

上、の対義語は下、であって、”上ではない”ではありません。
平和、とは”戦争状態にない”ことを指しているだけです。戦争の対義語となると対話だとか外交交渉だとか、そっちが近いでしょうね。明確なものはないはずです。

さて、長々と下らん話をしていますが、特に理由はありません。朝っぱらから下らん倫理セミナーの資料とか自己啓発系の話をされた上に、本質を理解しないで様式ばかりに目を取られ、様式こそが本質である、みたいな頭のわるい勘違いを強要されたので腹がたっただけです。十分な理由だと思いますが文句ありますか?wwwww

ただ、人はこのように特定の視点からでしか物事を観測できません。
多角視点とは、この特定の物事を観測する際に異なる側面からもその物事を観測できる、極めて高度かつとんでもなく非人間的な特殊技能です。
実際ンなことできる奴に出会ったことは少なくとも沙耶はありません。自分もできません。

ただ、別の視点の人間の思考を想定し、仮定し、それに理解を及ぼそうとする努力と、その時にその立場に対しての配慮、ならびにその立場の人に対して最も有効な交渉手法の策定はだれしもが行うことだったりもします。

この想定と仮定がもっとも重要なとこで、よりリアリティを高めた想定と仮定はより多角的な視点に近づいていく行為となります。決して届きはしませんが。
この想定と仮定の能力が低いと、依怙地だったり、人の話を聞かねーとか、自己中ってことに近づきます。どっちかっつーと私はそっちですがwwwwww

ただ、そういうもんである、っていう意識すらない人も世の中にはたくさんいます。
特に、金の魔力はこの部分をかなり強引に捻じ曲げます。カネが魔物、と言われる所以の一つでもありますが。憎悪、快楽、愉悦、愛情、そういったレベルの本質的な感情衝動と同レベルで金は強い干渉能力を持っています。

友達にカネを貸す時はあげる覚悟で。

これは結局のとこ、その魔力の強さが理性を余裕で上回るんだよって話なんですよね。
所詮理性なんてそのレベルのもんでしかありません。理知的、とか理性的、とか、冷静なんて褒め言葉じゃないですよ。本質的な感情衝動が動いたら余裕で吹っ飛ぶものが多少多かろうが少なかろうがタカが知れてるってもんです。

と、このように愚痴を言いたくなると理性吹っ飛ばして衝動的に書いてしまうわけで、理性なんざたかが知れてんだよばーかばーかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww


わかってんなら抑えろよ。

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