宗教、ねぇ

宗教ってのはある意味精神的な支えだから、単純に否定する気はまったくない。
沙耶です。私は完全に無宗教ですけどね。

それでも神道は面白いと思うからいろいろ調べたりしますし、三大宗教についてはその歴史や宗旨なんかは知れる範囲では学びましたが。
あんま宗教ネタはやりたくはないんだけどな。

★でもねぇ…こういう言い方はないんじゃね?★

6 名前: アンチ創価10の特徴 投稿日: 2006/10/16(月) 00:02:00 ID:VioX7Uku
・マスコミ的な信憑性のない情報を「真実」かのごとく信じ込む哲学の無さ
・学会員より学会を知り尽くしているかのように振舞う傲慢さ
・正義を正義と信じず、善を善と認められない心の狭さ
・学会批判を100回繰り返しても、対話は1回もできない臆病さ
・噂で判断して、直接学ぼうとしない勇気の無さ
・批判はあっても、宗教的な信念・行動を持たない薄っぺらさ
・「良き庶民」の仮面を振りかざして学会を批判しようとする偽善さ
・事実無根の情報を何年間も信じている頭の悪さ
・なにかにつけて文句を言い、歴史を知ろうする真剣の無さ(=嫉妬)
・学会員が洗脳されてることをすべての前提として、見下す謙虚さの無さ



なにかひとつの事象があるとする。
それをどう見るか、は見る人にゆだねられる。

絶対の悪も絶対の善もそこに存在してはならない。

そこにあるのは、たった一つの事象、という事実だけがある。

それを善とするのも、悪と断ずるのも見る人の見え方にゆだねられる。

宗教ってのは、その物事を見る、って面を他人(教祖や経典かな)にゆだねること。
それが現実からの救い、になる。
物事を見て、自分で判断し、決断を下していくのはとっても大変。
時にはつらいこともあるし、苦しい決断になることもある。

そして、その判断を下した責任は常に自分について回ってしまう。
だれにもその責任の所在を押し付けることはできない。

だから、とっても大変なこと。辛いこと。でもそれが、生きるってこと。
でもそれは、それだけではとっても大変だから、
その苦しみの責任を、その一端でも誰かに代わってもらえるなら。
それは救いになる。

宗教の立ち位置ってのは結局ソコだと思う。

そこで宗教に頼ってしまうことを弱いとは思わない。だって、生きるのはとても苦しいから。
誰かが何かを信じることは否定しない。それは、自由だし、守られてしかるべきことだ。

だが、行き過ぎてしまった結果、”すべての判断を棚に預けてしまった”見方しかできなくなってしまうことは避けたほうがいいんじゃない?とは思う。
誰かの判断がすべてになってしまっては。

本当に辛いとき、苦しいときに頼るだけならまだしも、
常にそこを価値判断の基準にしてしまっては、盲目になってしまうのとかわらない。

だって、物事を見る目は貴方自身にあるものだから。

貴方ではないほかの誰かの目が、貴方と同じものを見ているとは限らないのだから。
同じひとつの事象を見ているとしても
貴方と同じ方向からそれを見ているとは限らないのだから。
だから、貴方は自分の判断を捨ててしまうべきではない、と思う。
自分の判断の責任を、時には負わなければならない。
生きていなくてはならない。だって、貴方は生きているのだから。

・マスコミ的な信憑性のない情報を「真実」かのごとく信じ込む哲学の無さ

では何が真実であるといえるのか。真実など存在しないだろうに。そこにあるのはただの事象。
真実が存在するなどと言えることが哲学の無さといえないだろうか。草葉の陰でカントが泣くぜ?

・学会員より学会を知り尽くしているかのように振舞う傲慢さ

どちらがより知っている、など無意味な論争じゃないかな。学会員の知ってること、知らないことがあるだろう。
批判する人も、知っていること、知らないことがあるだろう。それを持ち寄ることをせずに、傲慢と切って捨てる事もまた、どれほど傲慢な行為だろうか。

・正義を正義と信じず、善を善と認められない心の狭さ

正義も善も存在しない。ただ大多数の共通認識があるに過ぎない。
絶対正義などというものがあればむしろ見せていただきたい。せせら笑うだけだが。

・学会批判を100回繰り返しても、対話は1回もできない臆病さ

まあ2chから拾ってきたネタだしなぁw 身の安全が保障されるなら対話する連中はいるんじゃないのかな。
コレまでの出来事や行為で身の危険が想定されるから対話を避けられてるんじゃないかなぁ…?
まずそれを払拭してほしい、と思われても仕方ないのでは?

・噂で判断して、直接学ぼうとしない勇気の無さ

同上。学ぶ=入信する。脱退することがさらにムツカシイ、ってのが知れ渡っちゃってるからねぇ…。
私は他人に判断のゲタ預ける気はまだないし。
知らないなら入信して、っていう人は創価に限らずいるけれど、本当に宗教の助けが必要な人は自ら助けを求めるものだ。
求めよ、さらば与えられん。仏教にしろキリスト教にしろ、求めるものを拒む宗教ではない。
だが、求めないものにまで強要するのは違うだろう。

・批判はあっても、宗教的な信念・行動を持たない薄っぺらさ

当たり前だwwwwwwwww 宗教的な信念とか言ってるのが笑えるがw
宗教を持たない人間ってのは、宗教の代わりに自分自身、という強固な信念を持つ。
言ってみれば自らが宗教そのものだと言い換えてもいい。もっとも、彼らはそれを傲慢だと呼び、神への冒涜だと言うのだが。
自らを宗教、というのは、自らの判断においてその責をすべて自分自身に置くということに他ならない。
自分を律するのは自分自身。他の誰でもない。

・「良き庶民」の仮面を振りかざして学会を批判しようとする偽善さ

善悪持ち出す時点でアレだが…自らを善と呼ぶことが不思議でならんなぁ…。

・事実無根の情報を何年間も信じている頭の悪さ

頭悪いとか頭ごなしに人に言うのはどうかと思いますwwwwww
見下しているとしか読めん。それで対話しろとか言ってるのは傲慢といわんのか。

・なにかにつけて文句を言い、歴史を知ろうする真剣の無さ(=嫉妬)

意味わからんな…歴史を知ることの何が悪いのか…。
文句を言うってのは確固たる意見があるからで、決してYesマンになってない証左じゃないかな。
意見があればそれを昇華させるのがディスカッションだと思うのだが…。

・学会員が洗脳されてることをすべての前提として、見下す謙虚さの無さ

知らんがなwwwww 洗脳されてんの?
見下してるのはこの文面見る限りじゃ書いた人のほうだと思うのだが…。

もっともこの話、創価に限った話ではない。同じような宗教はたくさんある。もっとひどいのだっていっぱいある。
結局のところ、入信しないと理解できないよ、ってのが前提条件におかれてしまう限り、どんな会話も無意味になる。
入信しないと判断基準となるものは与えられないよ、というなら私はそんなものはいらない。

というと傲慢だといわれる。傲慢とは、誰から見て傲慢なのか。
宗教が存在しなかった時代の人間はすべて傲慢であったということか。
それはずいぶんと上から見た物言いではないのだろうか。

傲慢と断罪できるのは、神の視点。
その視点を、神に判断のゲタを預けてしまっているからあたかも自分の視点であるかのように語れるわけだ。
ならば、こちらも断罪できる。私は、私という神の視点を持って断罪する。
その視点の用い方は、傲慢だ。

このロジックでは平行線にすぎない。だから、傲慢であるという批判を甘んじて受けよう。
傲慢でもかまわない。傲慢と評されるその責もまた、自分自身で築いた視点と判断によって自分にもたらされた因果。

だから、私には宗教は必要ないのだ。その責をすべて受ける覚悟と意識の元にいるのだから。

来れば楽になるよ、って別に楽になりたいとおもってねーしwwwwwwwww
来れば幸せになるよって今幸せだしwwwwwwwwwwwwwwwwwww
生きることが苦しい、でもその苦しみこそが生きてるってことなんだから。
取り除かれちゃったら死ぬしかねーじゃんwwwwwwwwwwwwwwwwwww
苦しんで、泥まみれで、ぐちゃぐちゃで。それでも、最後に笑いたいから、必死に苦しむ。
んで、最後に笑えるかどうかは、俺の人生ってコインをかけた大博打なわけで。
勝手に横から俺のコイン奪おうとするんじゃねーよ。
死ぬまで勝ってるか負けてるかわかんねぇ大勝負の真っ最中に余計な手出しすんじゃねぇ!
生きてるうちに勝負の結果が見たいなんて望んじゃいないんだよ、こっちは。

…と、何度説明してもわかってもらえない人にはどう対処すればいいんでしょうねぇ…。

0 thoughts on “宗教、ねぇ

  1. 佐賀はどうでもいいよ
    唐津最強
    後ね 最後に一言
    イカ絡んでないのが いみぷううううううううう

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