タワレコが当たり抽選を抜いた疑い 担当「本来はランダムだが偶然連番になり当選券がたまたま抜けた」
言い訳に無理があり過ぎるだろ、いくらなんでも。
なんで素直にごめんなさいが言えないのか。
沙耶です。
裁判官「国民は感情に流されすぎ。たかが女児一人をわいせつ目的で誘拐して殺したぐらいで死刑は無い」
まあ判例が強いのはわかる。でもさぁ。君らそれ見直そうとはしないじゃない。
アップデートされない判例にしがみつかれてもねぇ。
131 名前:フロントネックロック(大阪府)@\(^o^)/ [US]:2017/03/10(金) 13:09:27.42 ID:oIMRUSGj0.net
>>102
無責任って具体的に何がどう無責任なの?感情にだけで裁く方がよほど無責任だと思うよ
んーと、それを言うならば裁判は過去の判例にとらわれず、常に新しい判例を作る気持ちで判断に臨んでいる。が、これまでたまたますべての事例において過去の判例を覆すほどの重篤なものはなく、どう照らし合わせても過去の判例基準と同程度であるべきである、という明快な判断がなされている。とでも?
それが国民感情と乖離しているから問題だと国民は感じている、って話でしょ。
沙耶的には過失致死ではない殺意のある人殺しは一人殺そうが二人殺そうが死刑でいいと思ってるけど。
自己の犯行を隠蔽するための殺人、を過失致死と定義することは私はできない。
本来はすべきではないと理解はしているけど、正直なところ6歳の命と50歳のおっさんの命は等価ではないよ。
感情論を抜いても、少なくとも法的に同一天秤のものである、といったって、じゃあ逸失利益の算定が年齢によって定まるのはなんなんだって話にしかならん。
つまるところ、命なんて等価ではないんだよ。
生きている、ということそのものに対する価値は等価である。
だが、その生命そのものの持っている価値は等価ではない。
混濁させちゃだめだと思うんですよね。
生命が等価、というのは生きている、という一点において等価である。だと沙耶は思います。つまりその意味で言えば家畜も虫も人も等しく等価である。
そのうえで、人を虫や家畜の生命と等価としないのはその生命活動の持つ価値によって人をそのうえに置く、という行為によって制定されているのだと沙耶は考えます。
自己存続に重きを置けば他者の生命を軽視することになるでしょうし、事実野生動物にとってのそれはその通りといえるかと。逆に社会性を持って社会を存続しなければならない場合、社会性昆虫などにもみられる通り、社会性維持のために自己損失を許容することもあり得ます。
虫や動物は人間とは違う、なんて声は当然上がるとは思いますが、その声自体がまずは生命の特別視である、ということは認識しておいてほしいものです。
社会性を持つ人間は特別である、というスタンスからは逸脱していません。
別に悪いことじゃないです。自己が最優先なのは当然で、その最優先において個人利益を最優先にするか、社会利益を最大化するか、という話でしかないのですから。
つまり、生命の価値を等価、というただそれだけのことですら、概念的にはとても広いのです。
この場合において、生命の等価性を法的にどう解釈するかはさておき、法が見なければならないのは以下の二点。
・個人主観としての、自己利益としての生命価値
・社会主観としての、社会利益としての生命価値
なのです。つまり、社会利益としてたかが一個の生命を破棄する程度で個人主観の自己存続本能を排除するのはやり過ぎである。という意見になるのか、そもそも社会性動物である人間にとって、社会に対し危害を加えうる個人という生命を維持するのは社会の逸失利益に対して正当か。という問いです。
要するに感情論に突っ走るのは無責任だ、と糾弾するためには、生死を問うすべての裁判において、この哲学論議がなされていなければならない。でなければ、それは感情論と同等に価値がない。ただのルーチンワークのワークフローでしかない。そういう意味では向き合い、感情を揺らした感情論の方がよほどまっすぐに向き合ったとも言い換えることができてしまう。
生命とは何か。という根源的な問いに、すべての裁判官は明快な答えを返せるか、あるいはその議論が毎回形成されているのか?と問うた場合、沙耶はそうだとは思わない。裁判員による感情論は、裁判官のそのルーチンワークに波風立てるための一手だと思っているし、それを裁判官が否定するのは賢明ではない、あるいは「良い手ではない」と認識している。
そもそも生命に対する責任なんて誰も取れないんだから、生命に対する責任とは何かって聞かれたら、沙耶は「その生命にどれだけ真摯にまっすぐ向き合ったか」だと思う。
裁判員は「失われた生命」にまっすぐ向き合っただけのことだ。裁判官は「いままだ生きている生命」に向き合おうとした。んだと思う。
失われた生命はどれだけの未来があろうと取り返すことができないものだから、それにどれだけ真摯にまっすぐ向き合おうが意味がない。裁判官の死生観はおそらくそこにある。
取り戻せないものである以上、それにどれだけ向き合おうが、ゼロはゼロだ。二度とプラスにはならないし、回復もしない。ならばどれほどマイナスであろうが、プラスに転じる可能性のある「存続している生命」に向き合うべきだ。
法律論としてはそういうことなんだろう。だから、失われた生命に対してそれがどれほど素晴らしいものであっても等価として扱う。
それが、何一つ抵抗できない幼子であろうと、明日死ぬかもしれぬ老婆であろうと、大統領であろうと、死ねば等価であるものとして扱うべきだ。というのが法曹における死生観なのではないかと思う。
そのうえで、「存在している生命」により社会利益を生み出す方法があるのか、ないのかを考慮するのが裁判官なんだろうね。それは責任とか無責任というのとはちょっと違う気もするけれど。
・「存在している生命」の「未来に対して発生させうる」社会利益
・「存在している生命」の「未来に対して発生させうる」社会損失
これを比べた場合に、利益が大きいと判断された、と理解している。
沙耶はこの二つを厳密に逸失生命をくだらない、まだ社会利益も生み出していないたかがガキ一人が死んだ話。くらいにまで価値観を下げて、そのうえで。
・自分の性欲を満たすために他者を害することをいとわない
・その行為は突発的で衝動的で計画的ではない
・そのうえでそれが悪事であると理性では判断できるだけの能力があり、隠蔽を図るために殺人をいとわない
・理性で悪事と判断できていながら、自己保身に走り(被害者を害し)、社会に対して反省を示さない(自首していない)
・理性で悪事と判断可能でありながら、理性が抑止力となっていない
・生命維持に要する社会的なコストと、彼が将来、死ぬまでに生み出す利益
を天秤にかけたときに、本当に利益が大きいとは沙耶は思えない。
これを死刑は国家の殺人だから、と答えられても、それの何が悪いのか。としか回答できない。
計画的でないことは決して擁護ではないよ。
それは突発的に他者を害する可能性の示唆でしかない。理由もなく、なんてことではない。理由はある。彼自身の中には、確たる理由がある。だが、それが社会の誰にも共感されないだけで。
さて、本当にこの天秤は利益が大きいのかい?
本当にこんな風に「残った命」に向き合うなら、逸失した生命に対して「生命軽視の姿勢が甚だしく顕著とは言えない」なんて言及する必要があるかい? 本気で向き合うならば、逸失生命は軽視しなければならない。そんなもの重視しなくてよい。どうせ帰ってこない。どうしようもない。起きてしまったこと。過ぎ去った過去。取り戻せないもの。そんなものに裁判官が言及してはならないはずだ。
だってあなたたちは「存続している命」に真摯に向き合ってるんだろう?
毎回判例となるべく、限界のぎりぎりまで向き合ってるんだろう?
生命に対して無責任だなんて言われたくなくて、「このくらいでいいや」なんて妥協なんて認められないところで戦ってるんだろう?
だったら胸を張っていうべきだ。
死んだ命になんかこだわったってしょうがない。今生きてる彼を救うべきだと。
死んだ者に価値などないと。
その命の価値など、もう喪失してしまったあとではゼロでしかないと。
生きてるうちに救えなかったのならば、すでに勘定に含めるべきではないと。
僕はそれに全力で共感しないけれど、それを口にする人ならば、僕はその主張をする人間は然りと議論の遡上にある相手と認識できる。そこには信念を見る。
だが、僕はこの裁判官にはそれを見いだせない。
僕が間違ってるのかなぁ?