命がお金に見える人たちがいる。

沙耶です。倫理犯罪、という造語を考えていました。

ここに、いま、死にかけている子供がいる。
あなたがたが、少しずつでもお金をだしてくだされば、この子を病院に連れて行くことができて、この子は助かるのです。
助けてください。あなたの力が必要です!

彼らは、そう言った。そして、実際にその命は限界に近い。時間はない。

しかし、その子供を抱く両親の両手には大きなダイヤの指輪がはまり、その傍らには乗り付けてきた大きな黒塗りの高級外車。
そして、その後ろには募金を募るスタッフ。スタッフの給料も、おそろいのシャツも、あらゆる募金呼びかけの活動費のすべてが、募金でまかなわれる。

さぁ、あなたはこの天秤をどう量る?


子供に、罪は無い。助かるすべも、助かる方法もある。

そして、それを抱く親は自らをなげうってでも助ける意思がない。誰かによって救われることを社会に対し要求する。
そして、それを糾弾し、責め立て、自戒を促すには子供の余命は余りに短い。

もし、この親がすべての私財をなげうって、それでもどうしても足りない、助けてくれと懇願したのなら、社会は決して見捨てたりはしないでしょう。
しかし、そうではない。

あなたは、この募金にお金を投げ入れることが出来るか、出来ないか。

二つのifが存在する。

・親の状態を知らなければ->子供の境遇しか分からなければ、募金してしまう人も多いだろう。
・親の状態を知っていたら?->子供の状態に緊急性を感じ、だまされることをよしとするか、それとも糾弾するかは個人個人によってかわってくるだろう。

無知であれば単純に募金して、ああ、いいことをしたよね、で気持ちよく終われた事。しかしそれは知らないうちに騙された、ということでもある。
知ってしまえば、苦悩を強要される。罪の無い子供の救済と、親のエゴ。その二律背反を、本来悩む必要もなかった人間に押し付けることになる。

その責任を問う法律は、ない。無知なままであれば選択肢はない。
知ってしまえば選択肢はあるが、どちらも苦痛を強いる選択肢でしかない。
無知であることの幸福を取るのか、知ることでの痛みを伴う真実の上で苦悩すべきか。

うちの嫁さんなんかだと、知ってても騙されているほうが幸せだから、と言いますが。

と、ここまで書いたのが先月の9/28。
とはいえ事実もはっきりせんしなぁ、と一旦封印エントリにしてたんですけどね。

貴様らに食わす米はない。

子供に罪はなくとも親の功罪に振り回されるいわれは無い。
乞食に成り下がって無心して、自分の子供の命さえも金に見えたのなら、親の資格すらない。

この親に募金することで、同種の親が次々と現れて、本当に助けなければならない命が見えなくなってしまうくらいなら、私はあなたの子供を見殺しにする選択を選ぶ。
募金とはそういうものだ。集まったお金がどう処理されたのか、どうなったのか。
その責任一つ負うことすら出来ないなら、その命は申し訳ないが、見殺しにさせてもらう。

冷たいようだが、アカの他人の命だ。そのために嫌な思いをさせられてまで、金を出さねばならん義務など、私には無いはずだ。

流石にここまで開き直られるとムカつくを通り越して、乞食以下のゴミがNHKのプロデューサーなんてやってるんだね、って思うだけだ。
良くそんなザマで強制徴収だのとフザけたことが言えたもんだ…。

0 thoughts on “命がお金に見える人たちがいる。

  1. タイは首相だもん…。
    プミポン国王と一緒にしたらタイの人に殺されるよ、祭w

  2. そんなキムチの国から
    国連の事務総長がほぼ決定したソウデスネ
    やたら日本に干渉してきてたイメージのあるオサーンでしたがどうなることやら・・・

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