さて。イスラエル建国後に関してはユダヤの悪い側面も多く出てきます。
なぜなら、パレスチナ側は国家という体裁を持った組織には至っていなかったからです。
ユダヤのそれをナチのホロコーストや民族浄化といった面で捉えるのは少々あてが外れます。
彼らのそれは、”自分たちの土地を守るための聖戦”にほかなりません。
そして、パレスチナのそれも、”自分たちの土地を守るための聖戦”なのです。
両者がともに正当な理由を有している、それゆえに解決不能に等しくなってしまっている側面が強いわけです。
イスラエルは建国後、国内のパレスチナ人に対して苛烈な虐殺、武力による追放政策を施します。
なんせイスラエルは彼らが彼らの神より下された約束の地です。
ちなみに建国前にちょろっと国連が口をさしはさみ、分割統治とかを提案します。このときイギリスはもうすべての問題解決への努力を放棄し、決議を棄権。アメリカ主導によってこの提案は可決されます。
こうして、ユダヤ人の統治地域が独立したのがイスラエルです。
これにムカついたのがアラブ諸侯。国連決議でも反対しまくりましたが、強引に押し通された恨みもあって、エジプトをはじめとしたアラブ諸国はイスラエルへ侵攻。1948年5月14日、イスラエル建国と同時に始まるのが第一次中東戦争です。
これをイスラエルは縦進浸透での攻勢という国土を焦土化しながらも強烈な一撃を見舞い、エジプトを退けます。このときにイスラエルの人口の1%が死亡したといわれます。
そして、1956年10月に第二次中東戦争に流れ込みますが、英仏に対して米露が対立し、エジプトを支援したために停戦。英仏はスエズの利権を失います。また、このときに先鋒を務めたのがイスラエルです。第二次はエジプトとイギリスの対立なので省きます。この時期のエジプトはマジで過激派と変わりません。
一方でパレスチナ人はイスラエルの攻勢に難民化し、国外へ脱出。これが現在のガザ地区です。
この地域は第二次中東戦争でエジプトに割譲され、その支配下となったアラブの勢力圏だからです。
#つまり、中東戦争での対立もまたこの二者間の解決をより困難なものへと導いたのです。
憎しみの連鎖は10人のアラブ人が殺されれば100人のユダヤ人が殺され、1000人のパレスチナ人が犠牲になる、といった報復の繰り返しを生み出しました。
また、国外脱出したパレスチナ人難民の財産や土地はイスラエルに接収され、ユダヤ人に分配されました。これにより、難民は帰る場所を失います。
こののち、PLOが形成されます。パレスチナ解放戦線、アラファト議長が有名ですね。
対イスラエルとしての再右翼はエジプトでした。スエズの利権を手に入れたエジプトは、イスラエルの艦船の通過を禁止し、国境線に大量の軍隊を展開。
1967年5月、これに激怒したイスラエルは奇襲攻撃でエジプト軍を撃破、こうしてイスラエルは支配地域を大きく広げ、ガザ地区やエルサレムといったパレスチナの大半をその手に収めます。
この戦争は国連の調停で和平へ。
しかし1973年10月、第四次中東戦争勃発。エジプトを筆頭とするアラブ連合vsイスラエル。同時に石油の輸出制限をかけ、これを機に起きるのがオイルショックです。覚えてる方もいるのではないでしょうか。
このときまで、イスラエル軍はほぼ無敗を誇る精強な軍隊でしたが、アラブ連合の奇襲を受けて敗北。不敗神話が崩れますが、すかさずイスラエルは軍隊を立て直し、反撃攻勢に移り、エジプト軍を再度押し返します。
アメリカが間に割って入り、キャンプデービッド合意で停戦。
シナイ半島はエジプトに返還されますが、パレスチナ人による自治については合意形成には至れませんでした。
この後はみなさんもよく知るようにテロと虐殺の繰り返しです。アラブ諸国も西側も、パレスチナとイスラエル双方に言い分があることはわかっており、国連決議での分割統治地域をベースにパレスチナ人の居住地とイスラエルを分ける方向で考えています。
PLOのアラファト議長、そしてイスラエルのラビン首相などは、これに一定の歩み寄りを見せておりました。
しかし、1996年にラビン首相がパレスチナとの和解に否定的な過激派青年に暗殺。アラファト議長も2004年、フランスで死亡します。
彼らの死後は急激に再び情勢は悪化、為政者としての権力をかさにイスラエルはパレスチナ人への圧政を敷くことで支配地域の強化を急ぎます。一方のパレスチナも強硬姿勢を崩さず、自治政府は話合いでの解決を目指すとしながらも、イスラエル軍に対抗する力としての私兵や過激派組織の存在を黙認しています。
おそらくどのような手段でパレスチナとイスラエルを分け、パレスチナを建国したとしても…この二国間での紛争と国境線での虐殺やテロは収まらないでしょう。
それは、あくまで書面上そういう風にしましょうね、という建前に過ぎないでしょう。
そこにあるのは、ただ憎しみです。わが子、親を異教徒に殺された。
ただひたすらにその憎悪が渦巻き、お互いに相手は信用できない。
機会があるのなら背後から刺し殺すことをいとわない。
その中で話し合うことが、どれほどの勇気と度胸と覚悟が必要であるか、日本人にはなかなか分からないことだと思います。
ひとたび間違えば守るはずの自国民にすら殺されるのです。
それでもなお、話し合えばいいのに。そんな風に簡単にいうことはできません。
どちらの国にも、驚くほどの英雄が生まれ、そしてその英雄同士が死ぬ覚悟を持って初めて、話し合いがうまくいくかも知れない、そんなレベルの話です。そして、そうやって作られた合意形成もたった一晩明けてみた翌日には過激派にとって代わられた指導者に反故にされかねないのです。
アラファト議長とラビン首相が成し遂げた、一時の停戦合意のように。
数多の命の上に、たった一晩の平和を作るために死ねばいいのに。
話し合えばいいのに、というのは、彼らに向かってそういっているのと同じことなのです。
つまり、”死ねばいいのに”と。
私は、とても口にすることはできません。彼らの行為が間違っていて、人殺しであるとはいえ。
その行為の根底には双方認められるだけの理由が存在しており、その理由を否定することは困難です。
そのうえでなお、方法を間違えているのだから”死ね”とはとても言えないのです。
方法を間違えているから変えることはできないだろうか、と打診することは、死を覚悟せよと通告しているに等しく、それを言っていいのは、彼らを命を賭してでも守れるだけの力を持っている者たちだけだと思います。
方法が間違ってるのなんて、わかりきっています。
それでも、認めなければならないものもあるのです。
だからこそ、沙耶は中国ぶっつぶしてチベット救う方が楽だと言ったのです。
だってどっちかが悪ならそれでわかりやすく終わる話に過ぎないのですから…。