害のある人???

だったら害人とか言いますよ。害虫とか害獣と同じでしょう。

障害者とは『害のある人』という意味ではなく、『社会から害を背負わされている人』ととらえるべきです

障害のキャリア、という意味で障害者でしょ。
本人にとっての障害がある、というだけの意味でしかないと思いますが。
被害妄想もいい加減にしてほしいものです。そんなこと考えてるの自分たちだけですよ…。

自分たちで自分たちを差別しあって、その責任だけを自分たちの外側に押し付けるなんて卑怯もいいとこです。


いつから社会にとっての障害ってことになったんですか。

障害にはいくつかの発生パターンはありますが、明確に社会が原因である、と規定できる障害なんざほとんどないと思います。
事故やなんかにしても、「社会」が原因であることはまずない、というか聞いたことはないですね。

あ? C型肝炎? 薬害エイズ? 厚生省とかミドリ十字が犯人だろう。いつからそれは社会そのものになった。
突き詰めてしまえば、原因ってのははっきりしているものが多いわけで、原因がよく分かりませんね、ってのは遺伝病の類が多いですがこれも社会のせいだといえるものではないですよね。

なんで自分たちが不幸のヒロイン気どりでちやほやされなきゃならんと思い込んでるのですか君らは。

君らに害を背負わせたのは怪我させた相手や病気にかかった原因や遺伝子のいたずらだというなら連綿と続いてきたご先祖様のせいでしょうが。確かに君らのせいではないものがほとんどだが、だからと言って責任を社会に求めるのはお門違いも甚だしい。
自己に起因しない結果を与えられたからといって、それが因果の原因と結果からなる構造から逸脱するわけではありません。原因が単にあなた自身にないだけで、別の誰かに原因があります。
その別の誰、というのが不特定多数の社会構成員によってなされる(特定の複数の構成員が為す、では不十分というより原因が複数から発生しているだけ)場合に初めてそれは社会に起因する問題と言えるのです。

なんでも社会ってつけりゃバカがだまされるとか思ってんじゃねぇよ。

怒りをぶつける相手が手近な人だったり、ご先祖様だったり、もらった謝罪や賠償が不服だったりしたときのやつあたりする相手ではありませんよ、社会は。
むしろ社会は君らに十二分に配慮して道を譲っているのに、一歩譲ったら五十歩譲ってもらわないと気が済みませんか? 自助努力という言葉はしりませんか。

こういうことを言い出す君こそが害人であってがんばって生きてる障害者を最も差別している、社会にとって害悪である人なんですがいい加減自覚してくれませんか。

まあ、変態新聞じゃ最低レベルの教養もないでしょうしバカにつける薬はないっていうし、害悪の中には必要悪ってもんもありますけどお前は不必要ですねwwwwwwwwwwwwww
あ、これわからないと思うから説明しとくと記事書いた人に向かって悪口をいってるんだよ。
ああ、もしかしてふりがなふらないとよめないかなぁ?wwwwwwwwwwwwwwwwwwww

「『障害(がい)者』という言葉自体おかしい。誰かと比較されて言われているみたい」

じゃあ何と呼べばいいですか。個々の症状にあわせて呼びましょうか。めくら、オシ、ちんば、全部あなた方が言葉狩りをしたんじゃないですか? そうやって個々の症状を表現するのがあまりにも生々しいから、障害を持っている人、ハンディキャップキャリアとして表現してるんじゃないでしょうか。
健常者とは明らかに異なっている状態を表現する方法があってはならない、ということであれば、極端な話、雪の色は何色ですか? 白です。それは雪に対する差別ですね。って理屈すらも通ります。
私はメガネをかけていますが、眼鏡をかけていますね、といわれることを差別だとは思いません。
右手がない人に右手がない、といったらあなた方は差別だといいます。
禿に禿げてますねって言っても差別じゃないと思います。いい方によっては悪口かも知れませんが、悪口と差別を混同しすぎていませんか。
バカは差別ですか? アホは差別でしょうか? ヒトによっては「がんばれ」って言うと傷つく心の方もいますが、頑張れ、は差別語になるんでしょうかね。悪意を持っていえばどんな言葉だって悪口になります。悪口ってのはそういうものであって、差別とはまた違います。
差別の表現技法のひとつに悪口という手段があるだけで、差別そのものの本質ではありません。

障害者、も言い変えて、めくらもおしもちんばも駄目、ってしたんだったらじゃあもういいよね。

沙耶がいまここでいま、全く新しい概念単語として”すかぽろぴりょれーん”という言葉を現障害者を置換単語として(個人的に)定義します。
すかぽろぴりょれーんは死ねばいい。クズ。ゴミ。邪魔。

ってこうやって書いたら明らかに悪意と害意のもとの言葉になるでしょう。広まったら今度はすかぽろぴりょれーんが差別用語だって言いますか? 誰も使わないのに? 永久に終わらないことに気が付けませんか?
いったいなんの意味もないこのすかぽろぴりょれーんとやらの言葉のどこに差別の意図が存在しますか? 言葉の表面のどこにもないです。だっていま思いついた文字並べただけだし。

それを差別にするのも区別にするのも悪口にするのも使い手の心一つでしょう。
それを差別と受け取るのも区別と受け取るのも悪口だと受け取るのも、受け手の心一つでしょう。

事象を表現する手法を奪って、何がしたいですか。それとも区別してはいけませんか。
だったら社会はあなた方に配慮する必要はないですね。障害者手帳も要りませんし、それに対する福祉も不要ですよね。だって、区別できないんだったらあなた方もまた健常者の一人です。
就業の障害者枠も要りません。健常者とまったく同じように扱われ、そのうえで健常者と同じステージで戦って、それで初めて言える言葉です。

誰かの助けを受けながらいう言葉ではないでしょう。まるっきり生活保護もらってるやつのセリフそのままじゃないですか。
生活保護をもらって生活しているがたまの旅行にも行けない、友達に「働かないで生活保護もらっているんだ」って言われるのが悔しい。

悔しいなら働けよ。見返せよ。

それもしないで楽な方に逃げて文句だけ一人前にほざいといて何が不幸な人だよ。一緒じゃないですか。
新聞に出てくる障害者の人は、いつもこういう論調ですけど、本当に障害者の方ってこの思考が当然だと思ってるんでしょうか。
生きるってことは戦うってことです。そんなの健常者だからとか障害者だからとか関係ありません。

生き物の世界にはしょっちゅう奇形が生まれます。でも、奇形に生まれたからって”生きること”を放棄する命はありません。
誰かほかの仲間が餌を持ってきてくれるまで”生きようと努力しない”命なんざありません。
自分で餌を取りに行って、それでうまくとれなくて死んでしまったりはしますが。

生きようと努力するからこそ、命です。

獣にすら劣る行動を取っている人はいませんか?
生きることを放棄してはいませんか。

死んでいいのは、生きたくても生きれなかった奴と、全力で生きたやつだけだ。
生きることを放棄したやつなんか、命とは認めません。命ですらないものに、何の配慮が必要ですか。

命ですらないものは、私にとってはただそこにあるだけの”モノ”です。
ただのタンパク質の塊です。それをゴミと表現する以外に何の表現がありますか。
誰かに助けてもらう努力ではなく。そんなの、健常者だの障害者だのの区別なんかありません。
健常者にだってゴミはたくさんいます。
ゴミになりたくないから、生きてるんじゃないですか。

生きる努力を。
本当の意味で、”生きる”ことを。
って、そうか。だから私はあの死ぬ死ぬ詐欺が嫌いなのか。生きる努力をしている無垢な命を、生きたこともないやつがカネに換えてるから。

がんばって健常者と同じ生活をして、ハンディキャップの存在を感じさせない人もいます。
一方でこうやって不平不満だけを連ねる人もいます。

どちらも障害者ですよ。それを障害にするかしないかは、本人の心一つではないですか?
あなたたちが障害者たらしめられているのは、あなたたち自身による足かせによるところが大きいことにまだ、気が付きませんか?

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