いまいち

だからどうした!的な感覚が拭えません。

沙耶です。超久しぶりですw

お前ら自分の体の事『借り物』って事忘れてない?

借り物だから、大事に使いなさい。とか、その後、が本来あってはじめて思想として成立するわけで。


思いだせよ自分で考えろよあと知らねぇよ。

だったらタダの妄想以上でも以下でも無いんですね。
普通に魂を不変としての輪廻転生の思想ならば、その輪廻の先が見えていなければ話として成立せんわけです。

仏陀がすげぇ。って話になるのは、受肉した状態で、この輪廻の先を説いたからです。
これを、悟り、と言います。涅槃の境地、とかね。受肉している状態で、受肉している段階では行き着けない魂の行先を知り(それが正しいかどうかなんてのはさておき)、それを受肉した肉体に語らせたことに意味があるのであって、受肉の契約そのものには意味なんて無いのです。

魂によってそれが繰り返されるとしても、それが魂が行き着くべき先へ向かうためのステージであるというならば、それに気づいた人は次の段階へ行くために肉体を大切にするんでしょうしね。
気付かない人はまだその段階に無いのですから、肉体をどうこうしようとそれは魂のステージの問題でしかありません。

だから、気づけよ!って呼びかけること自体、同じステージの人にしか通じないし、通じた所でだからどうした。なのです。やることは決まってるしね。

大事なのはその次のステージの有り様とその存在性、そしてその意味なのです。

キリスト教にしろ、仏教にしろ、それを言葉を変え天国地獄だの神のお膝元だのと表現はしますが、つまる所はそういうことを言っているのです。
ただ気づけよ、と叫ぶだけの存在では、町中でイエスはおっしゃられた、よく生きなければ人は地獄に落ちると!って騒ぎ立ててる終末思想の押し売りと何も変わりません。片方が単に実体験からしゃべっている、というだけで(実感がある、というのであれば)、聖書からの勝手な引用や自己に都合の良い抜粋をして終末思想を押し売りするのと何ら変わらないのです。

沙耶さんが宗教が嫌いなのは、要するにそういう借り物の言葉でしか無いですし、それを実感させてステージを上げるにしても、”それをはじめてやったのはお前じゃないよね”という一点に尽きます。

それらが洋の東西を問わずに普遍的事象であるというなら、それを知ってより良く生きよう、という動きはあくまで”人の作った社会”に対する行為でしか無く、ではそれが無い前は一体どういう魂のステージであったのか、という問いに対し、人が生まれてから、の時間への回答しか持ち出せないからです。

もちろん、動物の世界の魂からステージが上がったので人の世界の受肉が始まった、という答えはありえます。

が、それ要するに普遍的事象だと言うならば、宇宙規模で同時進行なんですよその事象。

よその星にはもっと早くステージが上がった星があるかもしれません。また、有機生命体ではない進化を遂げた生命もあるかもしれません。

これらの”教え”を広めることが徳を積むことだと言うならば、どうしてその外の人たちが押し売り死に来ないんですかね? もっと上のステージにある星だってあるはずじゃないですか。自分達が一番進んでるんだなんて沙耶は烏滸がましい考えを持つに至るほどの傲慢さを持ちあわせてはいないですし。


魂の不変を言うならば、まず魂とは何か、を自問自答し続けるしかありません。
そして、その答えを明快に出した”教え”はいまのとこありません。当たり前ですけどね。自己言及のパラドックスですし。

それ故に神は死んだ、とか我思う、なんて言葉が哲学から生まれてきているのであって、そういう宗教の思想歴史つまりは神学と哲学史との関わり、洋の東西の思想の明確な共通点や相違点についてきちんと理解していれば、彼らのいうところの魂のステージ、という考え方そのものが別に何かを左右すべきものではないことも理解できるはずであって、声高にそれを叫び、押し付けようとするのもまた愚かしいことだとは気付けないもんなんですかねー…。

いまあるステージを受け入れてよく生きましょう。正しくあろうとしましょう。
他人を妬み嫉むことを避け、生きることを努力しましょう。

そんだけの話なんですよ、つまるところ。以上でも以下でも無い。
こんなもん、わざわざ宗教とやらに教わらなくては身につかないようなもんでは無いと思うのです。まあ、もしかしたら宗教に教えていただかなくてはここがわからない方、という魂のステージの方も居るとは思います。

それこそが悪人こそ救われるべきである、といった教えの根底の思想であって、知ったならば実践しましょうってだけの話なのですが、どうもいろいろすり替えて理解してされてしまっているようです。

宗教ってのは”必要としているならば必要として用いれば良い”のであって、そもそも理解していて、そこに向かっている人にとって、敢えて必ず必要とすべきものではない、と沙耶は思います。
まあこういうことを西洋の方にいうとわりとキチガイ扱いなのですがw

要はブレなきゃいいのです。
ただ、人はブレやすいので、その基準指針としての信仰というのはアリだと思います。

ただね。

病気が治ったとか、現世の苦しみから解き放たれたとか、その辺のアレはバカじゃねぇのと思ったりはしますw
だって、苦しみってのはそれはそれでステージの構成要因なのであって、それは自分で向き合って行かなきゃならんもんです。宗教のちからを借りて、気持ち的に楽に、ってのは別に否定しませんが、それでまるまる下駄預けちゃうのは間違っていますし、向き合うのは自分自身でなくてはならないでしょ。魂のステージになんかプラスになるんですか? 他人の教えに全部預けちゃうのって。

そうじゃなくて、判断基準の一環として、という意味なら信仰はアリだと思いますよ。

そういう意味でなら沙耶さんはおもいっくそ神道ですしね。万物に精霊を見て神を見て八百万に感謝して、生かされていることを尊びます。そんだけ。だから? それで?って話。
口先でいくら言ったところで行動伴わなかったら意味無いですし?


だからこの身で受ける苦痛も痛みも自分自身のためのものでだれかに勝手に持っていかれては困るんだよボケ分かれよ。


あ、タンスの角で小指ぶつけたときの痛みだけはヨモギに転送してもらえる方向でお願いします。

アレは要らない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です