夏も行き過ぎて

静かに秋の気配を纏いはじめて。
空気はわずかな冷たさとともに肺を駈けて。
じっとりとした夏と雨の香りを少しずつ尖った、鋭い香りへと。
空は静かに深い蒼から空色へと塗り替え始める。

沙耶の好きな季節です。

夏という子供から、秋という大人へと変わり始める、ニンフェットの季節。
大人でもなく、子供でもなく。
子供のあどけなさと無知と、向こう見ずな強さと。
大人の、少し打算の混じった小狡さと、それを恥じる気持ちの入り混じった、そんな季節。


二十四節気にして白露。秋降り立つ秋分と夏の残りを匂わせる処暑の狭間。

初候を草露白(そうろ、はく)、次候を鶺鴒鳴(せきれい、なく)。末候にして玄鳥去(げんちょう、さる)。
陰気やうやく重りて、露にごりて白色となれば也。

夏が、終わっていきます。

秋が、始まります。


オカルトを語るに、これほど適した季節がありましょうや?(結局それか


子供、という幽玄の時間と、大人、という現実の境界線。
かぐりよとうつしよの境。黄泉に建てられた岩戸。虚構と現実の揺らぎ。
そこにあるもの、とそこにないもの、が重なり合う最後の時間。

マヨヒガの時間。黄昏の時。さあ、始めよう。

幻界と怪異を。現実の中に塗り込められたまぼろしをみよう。


やる夫は友人たちと恐怖を乗り越えるそうです

いい季節に完結してくれたので、是非。まずは一級品のホラーから始めましょうか。最終話のあとに第一話の冒頭を見れば、その意味はずいぶんと変わってしまいます。
最初から完璧に組み上げられたプロットがあってこその芸当。

見事。
サブタイトル一つ一つの芸まで細かい細かい。


【師匠シリーズ】 先生 前編
【師匠シリーズ】 先生 中編
【師匠シリーズ】 先生 後編

師匠シリーズで有名なウニ◆oJUBn2VTGEさんの投稿ですが、これは師匠シリーズじゃないと思うのだけどw
ちょっと長いですが季節とあいまって非常に秀逸。読ませますね。マヨヒガに近い世界ですが、マヨヒガとはまた異なる、時間の向こう側。囚われた御霊の世界。幽霊の生きる時間の向こう側。

古くより、マヨヒガにたどり着きたるならばその地にあるもの何か一つ持ち帰るがよい。
それはあなたを幸せに導くであろう。

遠野物語にもあるように、マヨヒガとつながるならばそこから何かひとつ、持ち帰るといいです。

それがたった一杯の茶碗であっても。

遠野にては山中の不思議なる家をマヨイガという。

マヨイガに行き当たりたる者は、

必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。

その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。

女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、

この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。


「遠野物語」六三より




盗み来ざりしが故に、鶴と手紙は自ら彼のもとへ。大人は迷わねばたどり着けない異界、子供は異界と現界の狭間にありて迷いならざるともたどりつく無垢なる世界。

マヨヒガ。一度は迷い込んでみたい、そんな願望はありませんか?
深淵を覗くものは、常に深淵からも覗かれていると知れ。ニーチェの見た深淵は、彼を見返していたのでしょうか。


親戚マンソン奥2

最後には笑えるオカルトを、あなたに。手くせの悪い奥様スレの話題ですが、前半部分に関してはその顛末です。
詳しく読みたければ前の話からどーぞ。オカルト部分にはあまり関係がありませんが。

持ち主の方はキモい、と言い放ってはばからないお面。
が、エピソードを聞く限りそれは守護神クラスではないかと…。

魂の入った物品は特に気に入った所有者を保護する傾向にあります。
※もちろん自分が認めない所有者に対しては手ひどい攻撃をしますから、呪いの~~って言い方で全く間違っているわけではありませんが。


日本人形の類などもこの手の話は少なからずあるものです。
このお面は多少手荒に扱おうがどうしようが気にしてないご様子で、新聞紙ぐるぐる巻きにされようが持ち主に幸運を運んでいるようですが、日本人形の類などは所有者が”自分を置いてった”or”ぞんざいに扱われた”と認識すれば所有者に何らかのペナルティを課すこともあります。

これは、日本人形とこういった(多分このお面は神具や祭具の一種でしょうね)との性質の違いによるものです。

もともと、日本人形やフランス人形などは”飾る”ために作られたものです。
一方の祭具類は”使う”ためにあるもので、その目的の違いははっきりしています。

使う道具をひときわ大事に飾りたて、ちやほやする理由はないですし、お面ももちろんそうやってちやほやされることを望みはしません。祭事に取りだされ、使われることは望むでしょうが、そもそも異国の祭事なんて日本ではないですから、とりださないこと、が正解ですね。
舞い戻ってくるのは単に気に入られたからでしょう。

一方日本人形の類ですと逆に”飾られる”ことが望みです。たとえそれが呪いの人形であろうとも。
お焚きあげなどで開放できるものはいいですが…。
人形が動きまわったり祟りをおこすなら、それはその理由が必ずあります。中にナニカが入っているなら、なおさらその情念を増幅したうえで結実させようとしているでしょう。

形而魔術的には類似性を持つモノには類似性の高いものが宿りますから、人形は人の情念を宿しやすいものです。たとえそれがそんじょそこらの人形屋で買ってきた安っぽい機械生産品であろうとも。

五月人形、ひな祭り、それらの術式の意味は祝いであると同時に呪いであることも忘れないようにしましょう。
なぜ、3月3日を過ぎて雛人形を飾ってはならないのか。その意味。なぜ、端午の節句は男の子の日といわれているのに、”人形”なのか。

日本の古来からの祝いはその多くが”忌み”を形代を依りとして”移す”術式です。

おめでたい、だけでやってると思ってたらおーまちがい。飾り雛、五月人形には厄を移し穢れと忌みを移しておく行事でもある。
3月3日、5月5日に行うことを鑑みても、これらが陰陽五行においての陽日であることから、陰を追いだしやすいからでしょうね。

ちなみに奇数は陽、偶数が陰にあたります。7月7日の七夕の節句は皆さんご存知ですが、9月9日もまた五節句の一つ、重陽の節句に当たります。菊の節句とも言いますが、こちらはあまり知られてはいませんね。陰陽五行的にはかなり強い陽の日ですが。

各地の神社でも行いますが、大祓という行事があります。
年間を通じて、知らずに犯した罪や穢れを形代に移して流してしまう、という行事です。このときに用いられる形代として、ひとのかたちに切った紙を用いますが、これが雛人形の原形です。
今でも同様の目的として流し雛や七夕雛として流すところもありますね。

こういったひとがたの形代を用いた身代わり信仰ははるか古代からある信仰形態で、年季の入り様はそんじょそこらの宗教じゃ太刀打ちしきれない神秘でもあります。
てるてるぼーずてるぼーず。あれも一種の呪いです。

この国の祝いは呪いと常にあり。それが、人を呪わば穴二つ。幸福の代償は必ず反面に逆凪として吹きます。
それを、如何にして防ぐのか、この国の信仰の根幹はそこにあります。
日本の神が決して神といえる神ではなく、祟りである、というのはここに根っこがあります。

神に願うならばその代償を。人を呪うならばその代償を。

その二つに違いなんてありません。願いの内容でそれが祝いと呼ばれるか、それとも呪いと呼ばれ忌み嫌われるか。
それだけの違いでしかないのです。そして、願いの内容なんぞ神にとっちゃどーでもいいことです、そんなもん。

人を殺してくれと願おうが、救ってくれと願おうが、叶える手間は神にとって同じことです。

当たり前のように初日の出を拝み、当たり前のように初詣をし、あなたは神に何を呪いますか?
願った言葉は言霊となり、あなたを縛り、その願いを達成するべく力ははたらく。
言霊の力は人の心を動かすためのスターター。決意は強ければ強いほどその拘束は固く、呪縛は強く。

アミニズムの術式、なんてそんな単純なシステムに過ぎないのですが、単純であるが故にそれは強い。
制約を持たないが故にいかなる形でも発現します。

貴方は、何を祀り、何を祝い、何を呪いますか?
貴方の家の神は、守り神として、正しく呪われていますか?
神棚、という術式は、神を家に縛り付けて呪う術式。

正しく、使えていますか? この国の神の力を。

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