戦後経済

日本人にとって、世界経済と自国経済のバランス、そしてその研究がなされ始めてから、実はまだたった120年ほどしか経っていないんですね。

株、先物取引といった概念そのものは、日本にも江戸時代からすでに存在していました。
相場師、というのもいましたしね。しかし、それは江戸幕府による統制経済下においての取引であり、また大名などの最上位級の氏族から時には踏み倒されたりとかなり抑圧的な側面も存在しました。

彼らは、”世界”を知らなすぎたのです。


明治維新により海外との関係が発生、これにより日本は否応なく世界市場という化け物の中に飲み込まれていく。
これにある程度鋭く対応できたのは、市場システムそのものは名前こそ違うものの需要と供給のバランス、先物、金本位取引などの基本的なシステムそのものは理解されていたこと、そしてそれらについての研究もそれなりに進んでいたことが考えられるかと思う。

しかし、”世界”の中で戦っていくにはそもそもまだまだ”円”は末端のローカル通貨にすぎなかった。

これが一変するのが戦後成長期に当たる。
1945年、敗戦。徹底的にインフラを破壊され、工業設備を駆逐し、原爆により地方主力都市の二つを文字通り”消滅”、沖縄地方を租借、有力な若手人的資源の大半がシベリアに抑留、その上で多額の賠償請求。

これが、文字通り当時の日本の姿である。

はっきり言ってしまえば、第一次世界大戦後のドイツとどちらがスタート時点としてマシか、って話ならドイツを選んだ方がいい。ってくらい条件としては厳しいものと言うほかない。
第一次世界大戦の結末から、列強は何も学んではいなかったのだ。唯一、学んだことと言えば、武装解除強制を行うことで再度の暴走を起こさせない、それが世界に誇る憲法九条である。

つまり、憲法九条の本来の役目は、日本に再度の暴走を起こさせないことにあった。戦後経済にこれほどまでの枷を課せば、容易な再起はできない。国力拡大もままならず、国民が貧困にあえぎ、列強の食い物として生かさず、殺さず飼い殺す。そのためには、国外への拡大論調が日本の中で盛り上がってはいけないのだ。
それゆえに、ナショナリズムを徹底的に殺し、自虐史観を与え、軍事力を放棄させることで、「こういう目にあってもしょうがないのだ」という自己観念を有する、”勤勉なる列強の家畜”を生み出すことが本来の目的だった。
ただ、アメリカは帝国主義的植民地政策に対して、トルーマンドクトリンの実施により開放的な方向に動いていたのが幸いだったといわざるを得ない。
もしこれがアメリカ主導ではなく、大英帝国主導で行われたなら、結果はもっと抑圧的な側面を見せた可能性はある。共産各国については言わずもがな、だが。

しかし、列強はひどい思い違いをしていたのだ。

ゲルマン民族や日本人といった、いわゆる勤勉をその素質として有する民族に”束縛条件”はむしろ逆効果を生み出してしまう、ということを理解できていなかった。
もう一つの誤算は、朝鮮戦争である。

1950年に発生した朝鮮戦争において、日本は極東における物資供給起点としての役割を担った。そりゃそうだ、アメリカ本土で生産して持ってくるよりも日本で生産して使った方が圧倒的に楽だし。
この時期に日本の生産品のイメージが、粗悪な安価製品、というやつであり、バックトゥザフューチャーでドクが”日本製だって!?”と苦い顔をするのはこのためである。
俗にいう朝鮮特需。これが、日本の急速な発展の基盤となった。アメリカの要求する物資要求にこたえるため、とにかく人的資源をつぎ込んで工業・産業の再出発にあてたのだ。
なんでもいいからとにかく復興。

1956年、戦後わずか11年で、完全に破壊したはずの日本はインフラの復興を果たす。戦前の最高水準であった1940年のGNPに並ぶ。

1945年から50年までの五年間が、いわゆる戦後混乱期とよばれ、闇市が立ち、配給の食糧は満足に足るだけなく、といったいわゆる戦争の悲惨さを伝えるのはこの時期である。人的資源は著しく足らず、そも復員してきても食糧の配給は少ないわ、働く先はないわ、と踏んだり蹴ったりな時期と言える。
この時期にもっとも伸びえたのは農林水産業。糧食の基本といえる第一次産業の復興が第一目標であった。この五年間、共産主義化しなかったことは想像に絶する。餓死が横行し、労働者は低賃金で働かざるを得ず、食糧はない。はっきり言ってしまえば、この時期に革命がなされなかったのは奇跡としか言えない。GHQがいたとは言え、曲がりなりにも一度は列強とよばれるほどの国力を持った国の凋落。
それは、第一次大戦後のドイツの混乱以上とも言えるものだ。第一次大戦はそれほど国土の破壊が起きていない。そも、火力が貧弱だったしね。

そして、1950年からの復興期に入るわけだが、このあたりから国内経済が回り始める。

結果として1956年まででの復興を終えたのち、日本は急速な発展期に入る。45年~50年の混乱期に復員してきた人々、そして56年までの復興期においての急速な人口増加を第一次ベビーブームと称する。

これが、”団塊”の正体であることは言うまでもない。
この団塊が経済戦列に投入されるのが60年代後半から70年代にかけてとなる。

56年からの期間を高度経済成長期と称する。これは、バブル崩壊という最悪の崩壊を迎えるまでの長期にわたる安定発展を見る。
詳しいことはさっさにでも聞けよ。おれが知るわけないだろ。

60年に東京オリンピック。そして新幹線の開通。三種の神器とすら呼ばれた白物家電の国内需要の急増。そして、やはりベトナム戦争による極東拠点としての特需。
この二度の特需が、この国を押し上げていく。むろん、その裏ではがむしゃらにがんばる復員兵たちの姿があるわけだ。
この国を守る、その意思と決意を方法を変えて貫いた人々。それこそが、高度経済成長に至った一つの力でもある。

同時に、公害も急速に広がっており、これらの解消をもって安定成長期に入る。

70年代に入っては大阪万博が行われ、再度の特需を迎える。もはや、日本の再興は疑うべくもなかった。68年には日本は世界第二位のGNPを獲得するに至り、わずか30年ほどでの列強再興という”東洋の奇跡”を成し遂げる。
これは、発展途上国に大きな衝撃を与えた。そも、戦後日本の姿は自分たちとそれほど差異はない。むしろ、一次産業などの面では発展途上国の方が進んでいる国だってあったはずなのだ。
ちなみにドイツは55年まで列強占領下にあり、それら列強の手によって復興が行われている。
GHQの進駐があるものの、ほぼ自力復興してしまった日本とはだいぶ異なっているのだ。なんせ半分がソ連だったしね、あそこは。冷戦の象徴だ。

そして、ここにきてついにアレが起きる。

”ニクソン・ショック”

71年に起きる、突然のドルの固定相場制から変動相場制への移行。米ドルが金本位制を崩し、変動為替に飛び込んだのである。
これは決定的なアメリカの経済失策の一つである。ベトナム戦争での多額の財政赤字を抱えていたアメリカは、同時に激しいデフレと貿易赤字を抱えていた。本来その財政赤字の解消に動くべきだった。つまり、最大の要因であった軍事行動の縮小などで経済活動の正常化を図るべきだったのだが、政治的理由によりそれはできない、として通貨安による経済の安定化を狙った。
しかし、これが大間違いだった。

米ドルの急速な転換により、日本やドイツをはじめとする経済立国は少なからずの打撃を受ける。
そして、さらにアメリカの中東政策が引き金となって、OPECによる石油価格のつり上げ、第一次、第二次オイルショックが世界を襲った。

これを持って、高度経済成長の終焉となる。
そして、この時期の最後のきらめき、もっとも華々しかった時期に社会に飛び出したのが、”団塊”に当たるのだ。

オイルショックによるダメージが一段落し、これらの世代が主力層となり始めたのが80年代。
復興期のメンバーは主力から撤退を開始。

そして、ここからが悪夢の幕開けとなる。
バブル景気。不動産バブルによる戦後経済最大の失速と崩壊を生み出し、日本経済から10年を失わせた、”失われた10年”へのトリガー。

弾は込めた。自分で。
セーフティも外した。自分で。
そして、トリガーも引いた。自分で。

死体の処理は全部子供に押し付けた。

やる夫で学ぶバブル経済

上手くまとまってて面白いですよ。

併せて読むといいかもね。

やる夫で学ぶ「失われた10年」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です